六祖壇経 / 行由品第一
遂啟祖言:「何期自性,本自清淨;何期自性,本不生滅;何期自性,本自具足;何期自性,本無動搖;何期自性,能生萬法。」
新字:遂啓祖言:「何期自性,本自清浄;何期自性,本不生滅;何期自性,本自具足;何期自性,本無動揺;何期自性,能生万法。」
書き下し
遂に祖に啟して言く、「何ぞ期せん、自性は本より自ら清淨なることを。何ぞ期せん、自性は本より生滅せざることを。何ぞ期せん、自性は本より自ら具足せることを。何ぞ期せん、自性は本より動搖無きことを。何ぞ期せん、自性は能く萬法を生ずることを」と。
現代語訳
そして五祖に申し上げた。「思いもよりませんでした、自性がもともと清らかであることを。思いもよりませんでした、自性がもともと生じも滅びもしないことを。思いもよりませんでした、自性がもともと具わっていることを。思いもよりませんでした、自性がもともと揺るがないことを。思いもよりませんでした、自性がよく万法を生じることを」。
解説
五祖が夜中に慧能へ『金剛経』を説き、「應無所住而生其心」の句に至ったとき、慧能が大悟して発した言葉である。「何期」を五度繰り返す。思いもよらなかった、という驚きの反復で悟りが表現されている。内容は五つ——清らか、生滅しない、具わっている、揺るがない、万法を生む。前の四つは自性の静かな側面だが、最後の一つだけ向きが違う。「能く萬法を生ずる」。何も無いのではなく、そこからすべてが生まれる。「本來無一物」と言った同じ人が、その無一物が万法を生むと言う。空を静止として捉えないのが、この一段の要点である。そして表現が理屈ではなく驚きの形をとっていることも見逃せない。
この章句が説くこと
何期自性本自清浄能生万法応無所住而生其心
関連する章句
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