六祖壇経 / 行由品第一
身是菩提樹 心如明鏡臺 時時勤拂拭 勿使惹塵埃
新字:身是菩提樹 心如明鏡台 時時勤払拭 勿使惹塵埃
書き下し
身は是れ菩提樹 心は明鏡臺の如し 時時に勤めて拂拭し 塵埃を惹かしむる勿れ
現代語訳
身体は悟りの樹である 心は明るい鏡の台のようなものだ 常に努めて拭き清め 塵や埃をつけさせてはならない
解説
五祖が後継者を決めるために偈を作らせたとき、筆頭の弟子・神秀が廊下の壁に書いた偈である。修行のあり方として、これ以上ないほど正しい。心を鏡に喩え、日々磨けと説く。実際、五祖はこの偈を弟子たちに唱えさせ、これによって修行すれば悪道に落ちないと言っている。否定されたのではない。だが同時に、五祖は神秀を呼んで「門に入るを得ず」——まだ門の内側に入っていない、と告げる。理由は次の慧能の偈が示す。この偈には、拭くべき鏡と、拭く人と、落とすべき塵という三つが立っている。分けた時点で外にある。真面目に努力する人ほど、この偈の側に立ちやすい。
この章句が説くこと
神秀身是菩提樹時時勤払拭努力の型
関連する章句
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『六祖壇経』行由品第一「菩提本より樹無し、 明鏡も亦た臺に非ず、 本來無一物、 何れの處にか塵埃を惹かん。」
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『六祖壇経』行由品第一五祖の堂前に、歩廊三間有り。供奉盧珍を請じて、楞伽経の変相、及び五祖の血脈図を画かしめ、流伝供養せんと擬す。神秀、偈を作り成し已(をは)りて、数度呈せんと欲し、行きて堂前に至れば、心中恍惚として、遍身に汗流れ、呈せんと擬して得ず。前後四日を経て、一十三度偈を呈せんとして得ず。秀乃ち思惟す、如(し)かず廊下に向ひて書著し、他の和尚の看見するに従はんには。忽若(も)し好しと道(い)はば、即ち出でて礼拝し、是れ秀の作なりと云はん。若し堪へずと道はば、枉げて山中に向ひて数年人の礼拝を受く、更に何の道をか修せん、と。是の夜三更、人をして知らしめず、自ら灯を執り、偈を南廊の壁間に書し、心の見る所を呈す。偈に曰く、
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『六祖壇経』行由品第一秀、偈を書し了りて、便ち却(かへ)りて房に帰り、人総て知らず。秀復た思惟す、五祖明日偈を見て歓喜せば、即ち我、法と縁有り。若し堪へずと言はば、自ら是れ我迷ひ、宿業障重く、法を得るに合(かな)はず。聖意測り難し、と。房中に思想し、坐臥安からず、直ちに五更に至る。祖已に神秀の門に入りて未だ得ず、自性を見ざるを知る。天明けて、祖、盧供奉を喚びて来らしめ、南廊の壁間に向ひて図相を絵画せしめんとするに、忽ち其の偈を見て、報じて言ふ、「供奉、却つて画くを用ひず。爾を労して遠く来らしむ。経に云ふ、『凡そ所有(あらゆ)る相は、皆是れ虚妄なり』と。但だ此の偈を留めて、人に誦持せしめ、此の偈に依りて修せしめん。悪道に堕つるを免れ、此の偈に依りて修せば、大利益有り」と。門人をして香を炷(た)きて礼敬し、尽く此の偈を誦せしめ、即ち見性することを得しむ。門人偈を誦して、皆善き哉と嘆ず。祖、三更に秀を喚びて堂に入らしめ、問ひて曰く、「偈は是れ汝の作なりや否や」と。秀言ふ、「実に是れ秀の作なり。敢へて妄りに祖位を求めず。望むらくは和尚慈悲もて、弟子に少しの智慧有りや否やを看たまへ」と。祖曰く、「汝が此の偈を作るは、未だ本性を見ず。只だ門外に到りて、未だ門内に入らず。此の如き見解にては、無上菩提を覓むるも了に得べからず。無上菩提は、須らく言下に自らの本心を識り、自らの本性の不生不滅なるを見るべし。一切時中に於て、念念に自ら見て、万法に滞ること無し。一真なれば一切真なり。万境自ら如如たり。如如の心、即ち是れ真実なり。若し是の如く見ば、即ち是れ無上菩提の自性なり。汝且(しばら)く去りて、一両日思惟し、更に一偈を作りて、将ち来りて吾に看せしめよ。汝が偈若し門に入り得ば、汝に衣法を付せん」と。神秀、礼を作して出づ。又数日を経て、偈を作るも成らず、心中恍惚として、神思安からず、猶ほ夢中の如く、行坐楽しまず。一復た両日、一童子有り、碓坊を過ぎて其の偈を唱誦す。恵能一たび聞きて、便ち此の偈の未だ本性を見ざるを知る。未だ教授を蒙らずと雖も、早く大意を識る。
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『六祖壇経』行由品第一遂に童子に問ひて曰く、「誦する者は何の偈ぞ」と。童子曰く、「爾、這の獦獠は知らず。大師言ふ、世人生死事大なり、衣法を伝付せんと欲し、門人をして偈を作りて来り看せしむ。若し大意を悟らば、即ち衣法を付して第六祖と為さんと。神秀上座、南廊の壁上に於て無相の偈を書す。大師、人をして皆誦せしめ、此の偈に依りて修せば悪道に堕つるを免れ、此の偈に依りて修せば大利益有りと」と。恵能曰く、「上人、我此に碓を踏むこと八個余月、未だ曾て行きて堂前に到らず。望むらくは上人、引きて偈の前に至り礼拝せしめよ」と。童子引きて偈の前に至り礼拝せしむ。恵能曰く、「恵能は字を識らず。請ふ、上人為に読め」と。時に江州の別駕、姓は張、名は日用なる有り、便ち高声に読む。恵能聞き已りて、遂に言ふ、「亦一偈有り。望むらくは別駕為に書せよ」と。別駕言ふ、「汝も亦偈を作る、其の事希有なり」と。恵能、別駕に向ひて言ふ、「無上菩提を学ばんと欲せば、初学を軽んずるを得ず。下下の人にも上上の智有り、上上の人にも没意智有り。若し人を軽んぜば、即ち無量無辺の罪有り」と。別駕言ふ、「汝但だ偈を誦せよ、吾汝が為に書せん。汝若し法を得ば、先づ須らく吾を度すべし。此の言を忘るること勿れ」と。恵能の偈に曰く、
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『碧巌録』第二十八則山僧常に説く、若し是れ一句を添へば、甜蜜蜜地なるも、好好に観来たれば、正に是れ毒薬なり。若し是れ脊を劈いて便ち棒し、口に驀って便ち摑し、推し将ち出し去らば、方に始めて親切に人の為にす。「衲僧今古頭を競って走る」。到る処、是にも也た問ひ、不是にも也た問ひ、仏を問ひ祖を問ひ、向上を問ひ向下を問ふ。此の如くなりと雖然も、若し未だ這の田地に到らずんば、也た少くことを得ず。「明鏡台に当たって列像殊なり」、只だ一句を消ひて、明白を辨ずべし。古人道ふ、「万象及び森羅、一法の印する所なり」と。又道ふ、「森羅及び万象、総て箇中に在って円かなり」と。神秀大師云く、「身は是れ菩提樹、心は明鏡台の如し。時時に勤めて払拭して、塵埃を惹かしむること勿れ」。大満云く、「他は只だ門外に在り」。雪竇恁麼に道ふ、且く道へ、門内に在るか門外に在るか。爾等諸人、各一面の古鏡有り、森羅万象、長短方円、一一中に於て顕現す。爾若し長短の処に去って会せば、卒に摸索不著ならん。所以に雪竇道ふ、「明鏡台に当たって列像殊なり」と。却って須らく是れ「一一南に面して北斗を看る」べし。既に是れ南に面す、什麼と為てか却って北斗を看る。若し恁麼に会得せば、方に百丈・南泉の相見の処を見ん。此の両句は百丈の挨拶の処を頌す。丈云く、「我は又是れ大善知識にあらず、争でか説と不説と有ることを知らん」。雪竇此に到って頌し得て、死水裏に落在す。人の錯って会せんことを恐れて、却って自ら提起して云く、即今目前「斗柄垂る」、爾更に什麼の処に去ってか討ねん。爾纔かに「鼻孔を拈得すれば口を失却し」、口を拈得すれば鼻孔を失却し了れり。
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『驢鞍橋』卷下因に人問ふ、神秀大師の真性の偈は、邪見なりや。師曰く、自性を見たる偈には非ず。然れども修行の指南には宜し。又問ふ、乍去師の嫌ひ玉ふ処の実有の念を以て修すること□生れなから無漏心の人有るべからず。心を以て心を拭つては捨て捨てするより外なし、但し其の内念に戦て妄想からかひするは錯也。只勇猛心を以て善悪の心共に打払ひ打払ひぬんと用ふべき也。○いかき性とは、関山和尚堂もりし時、もりを持来れと有けれは、人の小僧ちやつといかきを持来てもりにすく。関山之を見て、法器なりと褒め給ふこと也。
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