臨済録 / 示衆
「道流!真佛無形、真道無體、真法無相,三法混融和合一處,辨既不得,喚作忙忙業識眾生。」
新字:「道流!真仏無形、真道無体、真法無相,三法混融和合一処,弁既不得,喚作忙忙業識衆生。」
書き下し
道流、真佛は形無く、真道は體無く、真法は相無し。三法混融して一處に和合す。辨ずること既に得ざれば、喚んで忙忙たる業識の眾生と作す。
現代語訳
道流よ、真の仏に形はなく、真の道に本体はなく、真の法に姿はない。この三つは溶け合って一つのところに和合している。それを見分けることができなければ、あわただしい業識の衆生と呼ぶ。
解説
四十三字の短い一段だが、臨済の要点がすべて入っている。仏・道・法の三つに、それぞれ形・体・相がないと言う。三つ並べて三つとも否定するのは、どれか一つを残さないためである。そして「三法混融して一處に和合す」。分けて捉えられない。ここで問題が起こる。形も体も相もなく、しかも分けられないものを、どうやって見分けるのか。臨済は方法を示さない。ただ「辨ずること既に得ざれば」——見分けられないなら、と条件だけを置き、その先を言う。「忙忙たる業識の眾生」。あわただしく動き回る、業の識に振り回された衆生だと。忙しさが、見分けられていないことの徴候として挙げられているのが鋭い。分からないから止まるのではなく、分からないから動き回る。心当たりのある姿である。
この章句が説くこと
真仏無形真道無体真法無相三法混融忙忙業識衆生
関連する章句
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『臨済録』示衆道流、真佛は形無く、真法は相無し。爾秖麼に幻化の上頭に模を作し樣を作す。設ひ求め得る者も、皆な是れ野狐精魅にして、並びに是れ真佛にあらず、是れ外道の見解なり。夫れ真の學道人の如きは、並びに佛を取らず、菩薩・羅漢を取らず、三界の殊勝を取らず、逈かに獨脫無くして物と拘はらず。乾坤倒覆するも我れ更に疑はず。十方の諸佛現前するも一念の心喜ぶこと無く、三塗地獄頓かに現ずるも一念の心怖るること無し。緣何ぞ此くの如き。我れ諸法の空相を見るに、變ずれば即ち有り、變ぜざれば即ち無し。三界は唯だ心、萬法は唯だ識なり。所以に夢幻空花、何ぞ把捉するを勞せん。唯だ道流の目前現今に法を聽く底の人有るのみ。火に入るも燒けず、水に入るも溺れず、三塗地獄に入るも園觀に遊ぶが如く、餓鬼畜生に入るも報を受けず。緣何ぞ此くの如き。嫌ふ底の法無ければなり。爾若し聖を愛し凡を憎まば、生死海裏に沈浮せん。煩惱は心に由るが故に有り。無心なれば煩惱何ぞ拘へん。分別して相を取るを勞せずんば、自然に道を得ること須臾ならん。
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『臨済録』示衆道流、切に真正の見解を求取して、天下に橫行し、這の一般の精魅に惑亂せらるるを免るるを要す。無事是れ貴人なり。但だ造作する莫かれ、秖だ是れ平常なれ。爾外に向かひ傍家に求めて脚手を覓めんと擬するは、錯り了れり。秖だ佛を求めんと擬するも、佛は是れ名句なり。爾還た馳求する底を識るや。三世十方の佛祖出で來るも也た秖だ法を求むるが為なり。如今參學の道流も也た秖だ法を求むるが為なり。法を得て始めて了る。未だ得ざれば依前として五道に輪回す。云何なるか是れ法。法とは是れ心法なり。心法は形無く、十方に通貫し、目前に現に用ゐらる。人信ずること及ばず、便ち乃ち名を認め句を認め、文字の中に向かって意度を求む。佛法とは天地懸殊なり。道流、山僧が説法は、什麼の法をか説く。心地の法を説く。便ち能く凡に入り聖に入り、淨に入り穢に入り、真に入り俗に入る。要且つ是れ爾が真俗凡聖にあらず。能く一切の真俗凡聖に名字を安著し、真俗凡聖は此の人に名字を安著すること得ず。道流、把得すれば便ち用ゐ、更に名字を著けざる、之を號して玄旨と為す。
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『臨済録』示衆問ふ、「如何なるか是れ真佛・真法・真道。乞ふ開示を垂れよ」と。師云く、「佛とは、心の清淨なる是れなり。法とは、心の光明なる是れなり。道とは、處處無礙の淨光是れなり。三は即ち一にして、皆な是れ空名にして寔有無し。真正に道を學ぶ人の念念に心間斷せざるが如し。達磨大師の西土より來りしより、秖だ是れ箇の人の惑を受けざる底の人を覓む。後に二祖に遇ひ、一言にして便ち了る。始めて從前虛しく功夫を用ゐしを知る。山僧が今日の見處は祖佛と別ならず。若し第一句中に得ば、祖佛と師と為らん。若し第二句中に得ば、人天と師と為らん。若し第三句中に得ば、自ら救ふも了せじ」と。
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『臨済録』示衆唯だ法を聽く無依の道人有るのみ、是れ諸佛の母なり。所以に佛は無依より生ず。若し無依を悟らば、佛も亦た得る無し。若し是くの如く見得する者は、是れ真正の見解なり。學人了せざるは、名句に執するが為に、他の凡聖の名に礙へられ、所以に其の道眼を障へて分明なることを得ず。秖だ十二分教の如きは皆な是れ表顯の説なり。學者會せずして、便ち表顯の名句上に向かって解を生ず。皆な是れ依倚して因果に落在し、未だ三界の生死を免れず。爾若し生死去住脫著自由なるを得んと欲せば、即今聽法底の人を識取せよ。形無く、相無く、根無く、本無く、住處無し。活撥撥地として、應に是れ萬種の施設なるも、用ゐる處は秖だ是れ處無し。所以に覓め著くれば轉た遠く、之を求むれば轉た乖く。之を號して祕密と為す。道流、爾箇の夢幻の伴子を認め著くる莫かれ。遲晚の中間に便ち無常に歸せん。
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『臨済録』示衆爾若し自ら信不及ならば、即便ち忙忙地に一切の境に徇って転じ、他の万境に回換せられて、自由を得ず。爾若し能く念念馳求の心を歇得せば、便ち祖仏と別ならず。爾、祖仏を識らんと欲得すや。秖だ爾が面前聴法底、是れなり。学人信不及にして、便ち外に向かって馳求す。設い求め得る者も、皆な是れ文字の勝相にして、終に他の活祖意を得ず。錯ること莫かれ、諸禅徳。此の時遇わずんば、万劫千生、三界に輪回し、好境に徇って掇し去り、驢牛の肚裏に生ぜん。道流、山僧が見処に約せば、釈迦と別ならず。今日多般の用処、什麼をか欠少す。六道の神光、未だ曾て間歇せず。若し能く是の如く見得せば、秖だ是れ一生無事の人なり。大徳、三界は安きこと無し、猶お火宅の如し。此れは是れ爾が久しく停住する処にあらず。無常の殺鬼は一刹那の間に、貴賤老少を揀ばず。爾、祖仏と別ならざらんと要せば、但だ外に求むること莫かれ。爾が一念心上の清浄の光は、是れ爾が屋裏の法身仏なり。爾が一念心上の無分別の光は、是れ爾が屋裏の報身仏なり。爾が一念心上の無差別の光は、是れ爾が屋裏の化身仏なり。此の三種の身は、是れ爾が即今目前聴法底の人なり。秖だ外に向かって馳求せざるが為に、此の功用有り。経論家に拠らば、三種の身を取って極則と為す。山僧が見処に約せば然らず。此の三種の身は是れ名言なり、亦た是れ三種の依なり。古人云く、『身は義に依って立し、土は体に拠って論ず。』法性の身、法性の土、明らかに知んぬ、是れ光影なることを。大徳、爾且く光影を弄する底の人を識取せよ。是れ諸仏の本源、一切処是れ道流が帰舎の処なり。是れ爾が四大の色身は説法聴法を解せず、脾胃肝胆は説法聴法を解せず、虚空は説法聴法を解せず。是れ什麼か説法聴法を解する。
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『臨済録』示衆是れ爾が目前歴歴底、一箇の形段勿くして孤明なる、是れ這箇、説法聴法を解す。若し是の如く見得せば、便ち祖仏と別ならず。但だ一切時中、更に間断すること莫かれ。触目皆な是なり。秖だ情生ずれば智隔たり、想変ずれば体殊なるが為に、所以に三界に輪回して種種の苦を受く。若し山僧が見処に約せば、甚深ならざる無く、解脱せざる無し。道流、心法は形無くして、十方に通貫す。眼に在っては見と曰い、耳に在っては聞と曰い、鼻に在っては香を嗅ぎ、口に在っては談論し、手に在っては執捉し、足に在っては運奔す。本と是れ一精明、分かれて六和合と為る。一心既に無なれば、随処に解脱す。山僧与麼に説く、意、什麼の処にか在る。秖だ道流が一切馳求して、心歇むこと能わず、他の古人の閑機境に上るが為なり。道流、山僧が見処を取らば、報化仏の頭を坐断し、十地満心も猶お客作児の如く、等妙二覚は枷を担い鎖を帯ぶる漢、羅漢辟支は猶お廁穢の如く、菩提涅槃は驢を繋ぐ橛の如し。何を以てか此の如くなる。秖だ道流が三祇劫の空なることに達せざるが為に、所以に此の障礙有り。若し是れ真正の道人ならば、終に是の如くならず。但だ能く縁に随って旧業を消し、任運に衣裳を著け、行かんと要すれば即ち行き、坐せんと要すれば即ち坐し、一念心も仏果を希求すること無し。何に縁ってか此の如くなる。古人云く、『若し業を作して仏を求めんと欲せば、仏は是れ生死の大兆なり。』大徳、時光惜しむべし。秖だ傍家に波波地に禅を学び道を学び、名を認め句を認め、仏を求め祖を求め善知識を求めて意度せんと擬す。錯ること莫かれ。道流、爾秖だ一箇の父母有り、更に何物をか求めん。爾自ら返照し看よ。古人云く、『演若達多、頭を失却す。求心歇む処、即ち無事。』大徳、且く平常なることを要す、模様を作すこと莫かれ。一般の好悪を識らざる禿奴有り、便即ち神を見、鬼を見、東を指し西を劃し、晴を好み雨を好む。是の如きの流は尽く須らく債を抵し、閻老の前に向かって熱鉄丸を呑む日有るべし。好人家の男女、這の一般の野狐精魅に著けられて、便即ち揑怪す。瞎屢生、飯銭を索めらるる日有らん。」師、衆に示して云く、
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