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臨済録 / 示衆

「道流!山僧佛法的的相承,從麻谷和尚、丹霞和尚、道一和尚、廬山拽石頭和尚,一路行遍天下,無人信得,盡皆起謗。如道一和尚用處純一無雜,學人三百、五百盡皆不見他意。如廬山和尚自在真正順逆用處,學人不測涯際,悉皆忙然。如丹霞和尚翫珠隱顯,學人來者皆悉被罵。如麻谷用處苦如黃蘗,近皆不得。如石鞏用處向箭頭上覓人,來者皆懼。如山僧今日用處真正成壞,翫弄神變,入一切境,隨處無事,境不能換。

新字:「道流!山僧仏法的的相承,従麻谷和尚、丹霞和尚、道一和尚、廬山拽石頭和尚,一路行遍天下,無人信得,尽皆起謗。如道一和尚用処純一無雑,学人三百、五百尽皆不見他意。如廬山和尚自在真正順逆用処,学人不測涯際,悉皆忙然。如丹霞和尚翫珠隠顕,学人来者皆悉被罵。如麻谷用処苦如黄蘗,近皆不得。如石鞏用処向箭頭上覓人,来者皆懼。如山僧今日用処真正成壊,翫弄神変,入一切境,随処無事,境不能換。

書き下し

道流、山僧が佛法は的的として相承す。麻谷和尚・丹霞和尚・道一和尚・廬山拽石頭和尚より、一路に行きて天下に遍きも、人の信じ得る無く、盡く皆な謗りを起こす。道一和尚の用處の純一無雜なるが如きは、學人三百・五百、盡く皆な他の意を見ず。廬山和尚の自在真正、順逆の用處の如きは、學人涯際を測らず、悉く皆な忙然たり。丹霞和尚の珠を翫び隱顯するが如きは、學人の來る者は皆な悉く罵らる。麻谷の用處の苦きこと黃蘗の如きは、近づくこと皆な得ず。石鞏の用處の箭頭の上に向かって人を覓むるが如きは、來る者皆な懼る。山僧が今日の用處の如きは、真正に成壞し、神變を翫弄し、一切の境に入り、隨處に無事にして、境換ふること能はず。

現代語訳

道流よ、わしの仏法は確かに受け継がれてきたものだ。麻谷和尚・丹霞和尚・道一和尚・廬山の拽石頭和尚から、ひとすじに行いて天下にゆきわたったが、信じられる人はなく、みな誹りを起こした。道一和尚のはたらきが純一で雑りがなかったときも、学人三百人五百人がみなその意を見てとれなかった。廬山和尚の自在で真正な、順にも逆にもはたらく用いかたには、学人はその果てを測れず、みなあっけにとられた。丹霞和尚が珠をもてあそんで隠したり現したりすれば、来る学人はみな罵られた。麻谷のはたらきは黄檗のように苦く、誰も近づけなかった。石鞏のはたらきは矢の先で人を探すようで、来る者はみな怖れた。わしの今日のはたらきはといえば、まことに成りもし壊しもし、不思議なはたらきを自在にあやつり、あらゆる境涯に入って、どこにいても何事もなく、境が入れ替えることはできない。

解説

自分の系譜を語る一段である。麻谷・丹霞・馬祖道一・廬山・石鞏と、唐代の禅者の名が並ぶ。ところが並べ方が独特だ。ふつう法系を語るときは、いかに偉大だったかを述べる。臨済が挙げるのは、いかに理解されなかったかである。「人の信じ得る無く、盡く皆な謗りを起こす」。馬祖のはたらきは純一だったが三百人五百人の誰にも意が見えず、丹霞に会いに来た者はみな罵られ、麻谷には誰も近づけず、石鞏のところに来た者はみな怖れた。系譜が誤解と拒絶の連なりとして描かれている。そのうえで自分を末尾に置く。「隨處に無事にして、境換ふること能はず」——どこにいても何事もなく、状況のほうが自分を入れ替えることはできない。誇っているのは影響力でも門下の数でもなく、状況に入れ替えられないという一点だけである。

この章句が説くこと

的々相承馬祖道一丹霞麻谷石鞏随処無事

この一句を、あなたの毎日に。

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