臨済録 / 上堂
上堂,云:「有一人論劫在途中不離家舍、有一人離家舍不在途中,那箇合受人天供養?」便下座。
新字:上堂,云:「有一人論劫在途中不離家舎、有一人離家舎不在途中,那箇合受人天供養?」便下座。
書き下し
上堂して云く、「有る一人は劫を論じて途中に在るも家舍を離れず、有る一人は家舍を離るるも途中に在らず。那箇か合に人天の供養を受くべき」と。便ち座を下る。
現代語訳
上堂して言った。「ある一人は、永劫のあいだ旅の途中にありながら、家を離れていない。ある一人は、家を離れていながら、旅の途中にいない。どちらが人と天の供養を受けるにふさわしいか」。そのまま座を下りた。
解説
四十四字で終わる、『臨済録』でも最も短い上堂の一つである。二人が対に置かれる。ずっと旅の途中にいるのに家を離れていない者と、家を離れているのに旅の途中にいない者。どちらも矛盾している。旅は求道の比喩で、家は本分——もともと居る場所である。前者は、探し続けながら実は一歩も出ていない。後者は、出てしまっていながら道の上にいない。どちらが供養に値するか、と問うて、臨済は答えずに座を下りてしまう。ここで問われているのは優劣ではなく、聞いた者が自分をどちらに当てはめるかである。学び続けている人ほど前者に、成し遂げたつもりの人ほど後者に見えてくる。答えが用意されていないので、持ち帰るものは自分の像しかない。
この章句が説くこと
論劫在途中離家舎上堂供養を受くべきは誰か
関連する章句
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『臨済録』上堂上堂して云く、「一人は孤峯頂上に在りて、出身の路無し。一人は十字街頭に在りて、亦た向背無し。那箇か前に在り、那箇か後に在る。維摩詰と作さず、傅大士と作さず。珍重」と。
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『臨済録』上堂山僧今日、事已むを獲ずして、曲げて人情に順ひ方に此の座に登る。若し祖宗門下に約して大事を稱揚せば、直だ是れ口を開くを得ず、爾が足を措く處無からん。山僧此の日、常侍の堅く請ふを以て、那んぞ綱宗を隱さん。還た作家の戰將、直下に陣を展べ旗を開く者有りや。眾に對して證據し看よ」と。僧問ふ、「如何なるか是れ佛法の大意」と。師便ち喝す。僧禮拜す。師云く、「這箇の師僧、却つて論を持するに堪へたり」と。師に問ふ、「誰が家の曲をか唱ふる。宗風阿誰にか嗣ぐ」と。師云く、「我れ黃蘗の處に在りて、三度發問し、三度打たる」と。僧擬議す。師便ち喝し、隨後して打ちて云く、「虛空裏に向かって橛を釘つ可からざるなり」と。座主有りて問ふ、「三乘十二分教、豈に是れ佛性を明かすにあらずや」と。師云く、「荒草曾て鋤かず」と。主云く、「佛豈に人を賺かんや」と。師云く、「佛は什麼の處にか在る」と。主語無し。師云く、「常侍の前に對して老僧を瞞かんと擬す。速やかに退け、速やかに退け。他の別人の諸問を妨ぐ」と。復た云く、「此の日の法筵は一大事の為の故なり。更に問話する者有りや。速やかに問ひ來れ。爾纔かに口を開けば、早く交涉勿きなり。
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『臨済録』上堂上堂。僧有り出でて礼拝す。師便ち喝す。僧云く、「老和尚、探頭すること莫くんば好し。」師云く、「爾道え、什麼の処にか落在す。」僧便ち喝す。又た僧有り問う、「如何なるか是れ仏法の大意。」師便ち喝す。僧礼拝す。師云く、「爾道え、好喝なりや也た無や。」僧云く、「草賊大敗す。」師云く、「過、什麼の処にか在る。」僧云く、「再犯は容さず。」師便ち喝す。是の日、両堂の首座相見えて、同時に喝を下す。僧、師に問う、「還って賓主有りや也た無や。」師云く、「賓主歴然。」師云く、「大衆、臨済が賓主の句を会せんと要せば、堂中の二首座に問取せよ。」便ち座を下る。上堂。僧問う、「如何なるか是れ仏法の大意。」師、払子を竪起す。僧便ち喝す。師便ち打つ。又た僧問う、「如何なるか是れ仏法の大意。」師亦た払子を竪起す。僧便ち喝す。師も亦た喝す。僧擬議す。師便ち打つ。師乃ち云く、「大衆、夫れ法の為にする者は、喪身失命を避けず。我れ二十年、黄檗先師の処に在って、三度仏法的的の大意を問い、三度他の杖を賜うことを蒙る。蒿枝の払著するが如くに相似たり。如今更に一頓の棒を得て喫せんことを思う。誰人か我が為に行じ得ん。」時に僧有り衆を出でて云く、「某甲行じ得ん。」師、棒を拈じて他に与う。其の僧接せんと擬す。師便ち打つ。上堂。僧問う、「如何なるか是れ剣刃上の事。」師云く、「禍事、禍事。」僧擬議す。師便ち打つ。問う、「秖だ石室行者の、碓を踏んで脚を移すことを忘却するが如きは、什麼の処に向かってか去る。」師云く、「深泉に没溺す。」師乃ち云く、「但だ来たる者有らば伊を虧欠せず、総に伊が来処を識る。若し与麼に来たらば、恰も失却するに似たり。与麼に来たらざれば、縄無くして自ら縛す。一切時中、乱りに斟酌すること莫かれ。会と不会と、都来是れ錯。分明に与麼に道う、天下の人の貶剝するに一任す。久立珍重。」
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『臨済録』上堂上堂して云く、「赤肉團上に一無位の真人有り。常に汝等諸人の面門より出入す。未だ證據せざる者は看よ看よ」と。時に僧有り出でて問ふ、「如何なるか是れ無位の真人」と。師禪床を下りて把住して云く、「道へ、道へ」と。其の僧擬議す。師托開して云く、「無位の真人、是れ什麼の乾屎橛ぞ」と。便ち方丈に歸る。
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