直毘霊 / 禍津日神
禍津日神の御心のあらびはしも、せむすべなく、いとも悲しきわざにぞありける。世間に、物あしくそこなひなど、凡て何事も、正しき理のまゝにはえあらずて、邪なることも多かるは、皆此の神の御心にして、甚く荒び坐す時は、天照大御神高木の大神の大御力にも、制みかね賜ふをりもあれば、まして人の力には、いかにともせむすべなし。
書き下し
禍津日神の御心のあらびはしも、せむすべなく、いとも悲しきわざにぞありける。世間に、物あしくそこないなど、凡て何事も、正しき理のままにはえあらずて、邪なることも多かるは、皆この神の御心にして、甚く荒び坐す時は、天照大御神・高木の大神の大御力にも、制みかね賜うおりもあれば、まして人の力には、いかにともせむすべなし。
現代語訳
禍津日神の御心が荒れることばかりは、どうすることもできず、まことに悲しいわざである。世の中で物が壊れ損なわれるなど、およそ何事も正しい理のとおりにはならず、道理に外れたことが多いのは、みなこの神の御心によるもので、激しく荒れなさるときには、天照大御神や高木の大神の御力をもってしても抑えかねる折があるのだから、まして人の力ではどうにも手だてがない。
解説
宣長の思想で最も特異な一点である。世の中の理不尽を、彼は禍津日神という荒ぶる神の働きに帰する。しかもこの神は、天照大御神や高木の大神の力をもってしても抑えきれないことがある、と言う。最高神が全能ではない世界像である。この立場から見れば、善人が不幸になり悪人が栄えるのは説明のつかない例外ではなく、世界にもとから組み込まれた事実になる。だから彼は、中国の天命説や仏教の因果説を、その事実を無理に理屈で丸めようとするものだと退けた。慰めのない見方だが、理不尽を理不尽のまま受け取れという一種の覚悟でもある。この禍津日神をめぐる議論こそ、上田秋成が『呵刈葭』で宣長に食い下がった論点でもあった。
この章句が説くこと
禍津日神制みかね賜う理不尽天命説と因果説への反論