南洲翁遺訓 / 第三十八条
世人の唱ふる機会とは、多くは僥倖の仕当てたるを言ふ。真の機会は、理を尽して行ひ、勢を審かにして動くと云ふに在り。平日国天下を憂ふる誠心厚からずして、只時のはづみに乗じて成し得たる事業は、決して永続せぬものぞ。
書き下し
世人の唱ふる機会とは、多くは僥倖の仕当てたるを言ふ。真の機会は、理を尽して行ひ、勢を審かにして動くと云ふに在り。平日国天下を憂ふる誠心厚からずして、只時のはづみに乗じて成し得たる事業は、決して永続せぬものぞ。
現代語訳
世の人が唱えるところの機会とは、多くはまぐれ当たりをしたことを言う。真の機会は、理を尽くして行い、勢いをつまびらかにして動く、というところにある。平生に国と天下を憂える誠心が厚くなくて、ただその時のはずみに乗じて成し得た事業は、決して長続きしないものだ。
解説
「機会」という言葉の使われ方を検分する条である。世間が言う機会は、たいてい「僥倖の仕当てたる」——まぐれ当たりの結果を、あとから機会と呼び直したものだ、と。では真の機会とは何か。「理を尽して行ひ、勢を審かにして動く」。二つある。道理を尽くして行うこと。そして勢いを見きわめて動くこと。理と勢の両方が要る。理だけでは動く時が分からず、勢だけではただの便乗になる。結びが厳しい。「只時のはづみに乗じて成し得たる事業は、決して永続せぬ」。はずみで取った成果は続かない、と。運よく当たった案件を再現できずに終わる、という経験は誰にでもあるだろう。西郷はその原因を、平生の誠心の薄さに置いている。準備の量ではなく、平生に何を憂えていたかを問うている。
この章句が説くこと
真の機会理を尽くし勢を審らかにす僥倖永続せぬ事業