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南洲翁遺訓 / 第三十七条

天下後世迄も信仰悦服せらるるものは、只是れ一箇の真誠也。古へより父の仇を討ちし人、其の麗ず挙て数へ難き中に、独り曽我の兄弟のみ、今に至りて児童婦女子迄も知らざる者の有らざるは、衆に秀でて、誠の篤き故也。誠ならずして世に誉らるるは、僥倖の誉也。誠篤ければ、縦令当時知る人無くとも、後世必ず知己有るもの也。

書き下し

天下後世迄も信仰悦服せらるるものは、只是れ一箇の真誠也。古へより父の仇を討ちし人、其の麗ず挙て数へ難き中に、独り曽我の兄弟のみ、今に至りて児童婦女子迄も知らざる者の有らざるは、衆に秀でて、誠の篤き故也。誠ならずして世に誉らるるは、僥倖の誉也。誠篤ければ、縦令当時知る人無くとも、後世必ず知己有るもの也。

現代語訳

天下後世までも信仰され悦び服されるものは、ただこれ一個の真誠である。昔から父の仇を討った人は、数えきれないほど多いなかで、ただ曽我の兄弟だけが、今に至って児童や婦女子までも知らない者がないのは、衆に秀でて誠が篤いからである。誠でなくて世に誉められるのは、まぐれ当たりの誉れである。誠が篤ければ、たとえ当時に知る人がなくても、後世に必ず知己があるものである。

解説

仇討ちをした人は無数にいるのに、なぜ曽我兄弟だけが誰にでも知られているのか。行為の派手さでも、成功の度合いでもなく「誠の篤き故也」だという。誠の量が、時間を超えて残るかどうかを決める、と。そのうえで二つの結論が置かれる。一つは「誠ならずして世に誉らるるは、僥倖の誉也」——誠のない称賛はまぐれ当たりだ。まぐれは続かない。もう一つが救いになっている。「誠篤ければ、縦令当時知る人無くとも、後世必ず知己有るもの也」。いま誰にも知られなくても、誠が篤ければ、後の世に必ず分かる人が現れる。評価されないまま続けている人に向けた言葉として読める。第三十一条の「自ら信ずるの厚き」と対になる。あちらは動じない根拠、こちらは続ける根拠である。

この章句が説くこと

一箇の真誠曽我の兄弟僥倖の誉後世の知己

この一句を、あなたの毎日に。

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