南洲翁遺訓 / 第二十九条
道を行ふ者は、固より困厄に逢ふものなれば、如何なる艱難の地に立つとも、事の成否身の死生抔に、少しも関係せぬもの也。事には上手下手有り、物には出来る人出来ざる人有るより、自然心を動す人も有れども、人は道を行ふものゆゑ、道を踏むには上手下手も無く、出来ざる人も無し。故に只管ら道を行ひ道を楽み、若し艱難に逢ふて之れを凌がんとならば、弥弥道を行ひ道を楽む可し。予壮年より艱難と云ふ艱難に罹りしゆゑ、今はどんな事に出会ふとも、動揺は致すまじ、夫れだけは仕合せ也。
書き下し
道を行ふ者は、固より困厄に逢ふものなれば、如何なる艱難の地に立つとも、事の成否身の死生抔に、少しも関係せぬもの也。事には上手下手有り、物には出来る人出来ざる人有るより、自然心を動す人も有れども、人は道を行ふものゆゑ、道を踏むには上手下手も無く、出来ざる人も無し。故に只管ら道を行ひ道を楽み、若し艱難に逢ふて之れを凌がんとならば、弥弥道を行ひ道を楽む可し。予壮年より艱難と云ふ艱難に罹りしゆゑ、今はどんな事に出会ふとも、動揺は致すまじ、夫れだけは仕合せ也。
現代語訳
道を行う者は、もとより困難に遭うものなのだから、どのような苦難の地に立とうとも、事の成否や身の生死などに、少しも関係しないものである。事には上手下手があり、物にはできる人とできない人があるから、自然に心を動かす人もあるけれども、人は道を行うものなのだから、道を踏むには上手下手もなく、できない人もない。だからひたすら道を行い道を楽しみ、もし苦難に遭ってこれをしのごうとするなら、いよいよ道を行い道を楽しむべきである。私は壮年より艱難という艱難にかかったから、今はどんなことに出会っても動揺はするまい、それだけは仕合せである。
解説
「道を踏むには上手下手も無く、出来ざる人も無し」——技能には上手下手があるが、道にはない。誰にでもできる、という宣言である。才能の有無を、道の実践から切り離している。そして苦難への処方が独特だ。「若し艱難に逢ふて之れを凌がんとならば、弥弥道を行ひ道を楽む可し」。苦しいときの対処が、道をもっと行うこと、しかも楽しむことだという。耐えるのでも、逃げるのでもない。最後の一行に西郷自身が現れる。「予壮年より艱難と云ふ艱難に罹りしゆゑ、今はどんな事に出会ふとも、動揺は致すまじ」。二度の島流しを経た人の言葉である。しかもその境遇を「夫れだけは仕合せ也」と結ぶ。苦難を積んだことを、幸せだったと数え直している。
この章句が説くこと
道に上手下手なし艱難に逢ういよいよ道を楽しむ二度の島流し