孟子 / 離婁章句下
禹稷當平世、三過其門而不入。孔子賢之。顏子當亂世、居於陋巷、一簞食,一瓢飲。人不堪其憂、顏子不改其樂。孔子賢之。孟子曰、禹稷顏回同道。禹思天下有溺者、由己溺之也。稷思天下有飢者、由己飢之也。是以如是其急也。禹稷顏子易地則皆然。今有同室之人鬬者、救之、雖被髮纓冠而救之、可也。鄉鄰有鬬者、被髮纓冠而往救之、則惑也。雖閉戶可也。
新字:禹稷当平世、三過其門而不入。孔子賢之。顏子当乱世、居於陋巷、一簞食,一瓢飲。人不堪其憂、顏子不改其楽。孔子賢之。孟子曰、禹稷顏回同道。禹思天下有溺者、由己溺之也。稷思天下有飢者、由己飢之也。是以如是其急也。禹稷顏子易地則皆然。今有同室之人鬬者、救之、雖被髪纓冠而救之、可也。鄉鄰有鬬者、被髪纓冠而往救之、則惑也。雖閉戸可也。
書き下し
禹・稷は平世に當りて、三たび其の門を過ぐれども入らず。孔子、之を賢とす。顏子、亂世に當りて、陋巷(ロウ・コウ)に居り、一簞の食、一瓢の飲のみ。人は其の憂いに堪えざるも、顏子は其の樂しみを改めず。孔子、之を賢とす。孟子曰く、「禹・稷・顏回は道を同じくす。禹は天下に溺るる者有れば、由ほ己が之を溺らすがごとしと思えり。稷は天下に飢うる者有れば、由ほ己が之を飢えしむるがごとしと思えり。是を以て是の如く其れ急なり。禹・稷・顏子は地を易うれば則ち皆然り。今、同室の人の鬬う者有れば、之を救うこと、被髮纓冠して之を救うと雖も、可なり。鄉鄰に鬬う者有りて、被髮纓冠して往きて之を救わば、則ち惑いなり。戸を閉づと雖も可なり。」
現代語訳
昔、禹や稷は太平の世に生まれたにもかかわらず、人民のために奔走し、公務に励み、しばしば我が家の門前を通り過ぎながら、中に入って休もうとはしなかった。孔子は彼らを称賛して賢者であると言った。孔子の弟子の顔回は乱世の世に生まれ、裏長屋に住み、ひとわんの飯に、一杯の飲み物という生活で、普通の人には耐えられないような貧乏な生活を送っていたが、それを改めず、自分の道を楽しんでいた。孔子は彼を称賛して賢者であると言った。これについて孟子は言った。 「禹・稷・顏回もそれぞれの行動は異なっているが、その根本の道は同じである。禹は治水の責任者であったので、河川の氾濫などで天下に溺れる者が一人でもいれば、自分が溺れさせたかのように責任を感じた。稷は農耕の責任者であったので、天下に一人でも飢える者がいれば、自分が飢えさせているかのように思った。このように溺れたり飢えたりしている者がいるのは自分の責任であると思っていたので、家にも寄らずに忙しく奔走していたのである。禹・稷・顏回の三人はたとえ立場を入れ替えたとしても、やはり同じことをしたであろう。たとえば同室の者が喧嘩を始めたら、これを引き止めるためには、髪を振り乱し、冠の紐を結ぶ暇もなく、仲裁に入っても差支えはない。だが村で喧嘩が始まった時、村には責任者がいるのに、髪を振り乱し、冠の紐も結ばずに仲裁に駆けつけるのは、本筋から離れており、家の戸を閉じて引っ込んでいるほうがよいのである。」
解説
この章句が説くこと
関連する章句
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孟子・盡心章句上公孫丑曰く、「伊尹曰く、『予、不順に狎れしめず。』太甲を桐に放ち、民大いに悅ぶ。太甲賢となる。又之を反し、民大いに悅ぶ。賢者の人臣為るや、其の君、賢ならざれば、則ち固より放つ可きか。」孟子曰く、「伊尹の志有れば、則ち可なり。伊尹の志無ければ、則ち篡うなり。」
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荀子・大略篇公行子之(こうこうしし)、燕(えん)に之(ゆ)き、曾元(そうげん)に塗(みち)に遇(あ)ひて曰く、「燕君(えんくん)は何如(いかん)」と。曾元曰く、「志(こころざし)卑(ひく)し。志卑き者は物を軽んじ、物を軽んずる者は助けを求めず。苟(いやしく)も助けを求めずんば、何ぞ能(よ)く挙(あ)がらん。氐羌(ていきょう)の虜(とりこ)たるや、其の係累(けいるい)せらるるを憂へずして、其の焚(や)かれざるを憂ふ。夫(か)の秋毫(しゅうごう)を利として、国家を害(そこな)ひ靡(ほろぼ)す、然も且(か)つ之を為す、幾(あ)に知計(ちけい)を為すと為さんや」と。
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史記 伯夷列伝子曰く、「道同じからざれば相ひ為に謀らず」と。亦た各々其の志に従ふなり。故に曰く、「富貴もし求む可くんば、執鞭の士と雖も、吾も亦た之を為さん。如し求む可からずんば、吾が好む所に従はん」と。「歳寒くして、然る後に松柏の凋むに後るるを知る」。世を挙げて混濁して、清士乃ち見はる。豈に其の重んずること彼の若く、其の軽んずること此くの若くなるを以てせんや。
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論語・里仁篇子曰わく、いやしくも仁に志せば、悪しきこと無し。
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葉隠・聞書第一一度打向へば、最早(もはや)其の道に入りたるなり。名人も人なり、我も人なり、何しに劣るべきかと思ひて、一度志すところが即ち聖人なり。後(のち)に修行して聖人に成り給ふにはあらず。十有五にして学に志すとは、即ち聖人なり。初発心時(しょほっしんじ)辨成正覚(べんじょうしょうがく)ともこれあるなり。