孟子 / 梁惠王章句上
梁惠王曰:「寡人願安承教。」孟子對曰:「殺人以梃與刃,有以異乎?」曰:「無以異也。」「以刃與政,有以異乎?」曰:「無以異也。」曰:「庖有肥肉,廄有肥馬,民有饑色,野有餓莩;此率獸而食人也。獸相食,且人惡之;為民父母行政,不免於率獸而食人,惡在其為民父母也?仲尼曰:『始作俑者,其無後乎?』為其像人而用之也。如之何其使斯民饑而死也!」
新字:梁恵王曰:「寡人願安承教。」孟子対曰:「殺人以梃与刃,有以異乎?」曰:「無以異也。」「以刃与政,有以異乎?」曰:「無以異也。」曰:「庖有肥肉,廄有肥馬,民有饑色,野有餓莩;此率獣而食人也。獣相食,且人悪之;為民父母行政,不免於率獣而食人,悪在其為民父母也?仲尼曰:『始作俑者,其無後乎?』為其像人而用之也。如之何其使斯民饑而死也!」
書き下し
梁の恵王曰く、「寡人願はくは安んじて教へを承けん。」孟子対へて曰く、「人を殺すに梃と刃とを以てする、以て異なること有るか。」曰く、「以て異なること無きなり。」「刃と政とを以てする、以て異なること有るか。」曰く、「以て異なること無きなり。」曰く、「庖に肥肉有り、廄に肥馬有り、民に饑色有り、野に餓莩有り。此れ獣を率ゐて人を食ましむるなり。獣相食むすら、且つ人之を悪む。民の父母と為りて政を行ひ、獣を率ゐて人を食ましむるを免れずんば、悪くんぞ其の民の父母為るに在らんや。仲尼曰く、『始めて俑を作る者は、其れ後無からんか』と。其の人に像りて之を用ふるが為なり。之を如何ぞ其れ斯の民をして饑ゑて死せしめんや。」
現代語訳
梁の恵王が言った。「私は心を落ち着けて先生の教えを承りたい。」孟子は答えた。「人を殺すのに棍棒を使うのと刃物を使うのとで、違いはあるか。」王は言った。「違いはない。」「では刃物で殺すのと政治で殺すのとで、違いはあるか。」王は言った。「違いはない。」孟子は言った。「台所には肥えた肉があり、厩には肥えた馬がいるのに、民は飢えた顔色をしており、野には餓死者が転がっている。これは獣を引き連れて人を食わせているのと同じである。獣どうしが食い合うのでさえ、人はこれを憎む。民の父母として政治を行いながら、獣を率いて人を食わせることを免れないのなら、どこに民の父母たる所以があろうか。仲尼(孔子)は『はじめて俑(副葬用の人形)を作った者には、きっと子孫が絶えるだろう』と言った。人の形に似せたものを死者とともに埋めたからである。人形でさえそうなのに、どうしてこの民を飢えさせて死なせてよいものか。」
解説
この章句が説くこと
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