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荀子 / 哀公篇

哀公曰:「善!敢問何如斯可謂大聖矣?」孔子對曰:「所謂大聖者,知通乎大道,應變而不窮,辨乎萬物之情性者也。大道者,所以變化遂成萬物也;情性者,所以理然不取舍也。是故其事大辨乎天地,明察乎日月,總要萬物於風雨,繆繆肫肫,其事不可循,若天之嗣,其事不可識,百姓淺然不識其鄰:若此則可謂大聖矣。」哀公曰:「善!」

新字:哀公曰:「善!敢問何如斯可謂大聖矣?」孔子対曰:「所謂大聖者,知通乎大道,応変而不窮,辨乎万物之情性者也。大道者,所以変化遂成万物也;情性者,所以理然不取舎也。是故其事大辨乎天地,明察乎日月,総要万物於風雨,繆繆肫肫,其事不可循,若天之嗣,其事不可識,百姓浅然不識其鄰:若此則可謂大聖矣。」哀公曰:「善!」

書き下し

哀公曰く、善し。敢えて問う、何如なれば斯ち大聖と謂うべきか、と。孔子対えて曰く、所謂る大聖なる者は、知は大道に通じ、変に応じて窮まらず、万物の情性を辨(わきま)うる者なり。大道なる者は、変化して万物を遂成する所以なり。情性なる者は、然否・取舎を理(ことわ)る所以なり。是の故に其の事は大いに天地に辨らかに、日月に明察にして、万物を風雨に総要す。繆繆(びゅうびゅう)肫肫(じゅんじゅん)として、其の事は循(たず)ぬべからず。天の嗣(つ)ぐが若くにして、其の事は識るべからず。百姓は浅然として其の鄰(となり)を識らず。此くの若くんば則ち大聖と謂うべし、と。哀公曰く、善し、と。

現代語訳

哀公が言った、けっこうです、では大聖とはどういう者か、とお尋ねしたい。孔子は答えた。いわゆる大聖とは、その知が大いなる道に通じ、どんな変化に応じても行き詰まらず、あらゆるものの本性を見分けることができる者です。大いなる道とは、変化しながら万物を成し遂げさせるはたらきのこと。本性とは、是と非、取ることと捨てることを筋道立てる根拠のことです。ですからその働きは天地のように広く明らかで、日月のように隅々まで照らし、万物を風雨のうちに束ねまとめます。奥深く行き届いていて、その働きの跡をたどることはできません。天が万物を継ぎ育てるようなもので、その全体を知り尽くすことはできません。人々は浅くしか見ないので、すぐそばにあるその働きにさえ気づきません。こういう者を大聖と言うのです。哀公は言った、けっこうなお話だ、と。

解説

五儀の最上段、大聖の描写です。ここまでの庸人・士・君子・賢人が人としての姿で語られてきたのに対し、大聖は天地や日月にたとえられ、はたらきそのものとして描かれます。その知は根本の道に通じているので、状況がどう変わっても行き詰まらない。物事の本性を見分けるので、是非も取捨も自然に定まる。そしてその働きは大きすぎて跡をたどれず、人々は隣にあるその恵みにすら気づかない、と言います。空気や日の光のように、あまりに行き渡っているものは意識されないのと同じです。私たちの周りにも、いなくなって初めて分かるほど自然に場を支えていた人がいます。目立つ働きではなく、気づかれない働き。荀子と孔子が最上位に置いたのは、そうした存在でした。日々の仕事でも、変化に応じて崩れない芯と、誇示しない働きを目指したいものです。

この一句を、あなたの毎日に。

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