荀子 / 宥坐篇
孔子曰:「如垤而進,吾與之;如丘而止,吾已矣。」今學曾未如肬贅,則具然欲為人師。
新字:孔子曰:「如垤而進,吾与之;如丘而止,吾已矣。」今学曽未如肬贅,則具然欲為人師。
書き下し
孔子曰く、「垤(てつ)の如くにして進まば、吾之に与(くみ)せん。丘(きゅう)の如くにして止まらば、吾已(や)まん」と。今の学は曾(すなわ)ち未だ肬贅(ゆうぜい)の如くならずして、則ち具然(ぐぜん)として人の師と為らんと欲す。
現代語訳
孔子は言った、「蟻塚ほどのわずかなものでも、なお前へ進もうとするならば、私はその人に味方する。丘ほどに積み上がっていても、そこで止まってしまうならば、私はもう関わらない」。ところが今の学問ときたら、まだ疣(いぼ)ほどの大きさにもなっていないのに、それでも一人前の顔をして人の師になろうとする。
解説
孔子の言葉に、荀子が痛烈な批評を一言そえた構成の短い段です。孔子が見ているのは、積み上がった量ではなく、進んでいるかどうかという方向です。蟻塚のようにわずかしか積めていなくても、なお前へ進もうとするなら手を貸す。逆に、丘のように立派に積み上がっていても、そこで満足して止まってしまうなら、もう関わらないと言い切ります。学問は到達点ではなく、動き続ける営みだという見方です。そこに荀子が、当世の学ぶ者はまだ疣ほどの学識もないくせに、平然と人の師になりたがると付け加えます。少し学ぶと教えたくなり、発信したくなるのは、時代を問わない人間の癖なのでしょう。自分は今、まだ進んでいるだろうか。それとも、これまでの蓄えの上に腰を下ろして、人に教える側に回りたくなっているだろうか。立ち止まった瞬間に学びは終わる、と釘を刺す一段です。
この章句が説くこと
止まらない学び垤と丘師になりたがる慢心
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