荀子 / 大略篇
舜曰:「維予從欲而治。」故禮之生,為賢人以下至庶民也,非為成聖也;然而亦所以成聖也,不學不成;堯學於君疇,舜學於務成昭,禹學於西王國。
新字:舜曰:「維予従欲而治。」故礼之生,為賢人以下至庶民也,非為成聖也;然而亦所以成聖也,不学不成;堯学於君疇,舜学於務成昭,禹学於西王国。
書き下し
舜曰く「維れ予 欲に従いて治まる」と。故に礼の生ずるは、賢人以下 庶民に至るまでの為なり、聖を成す為に非ざるなり。然れども亦た聖を成す所以なり、学ばざれば成らず。堯は君疇に学び、舜は務成昭に学び、禹は西王国に学べり。
現代語訳
舜は「わたしはただ心の欲するままに従っていて、それで天下が治まった」と言った。だから礼が設けられたのは、賢人から庶民に至るまでの人のためであって、聖人を作り上げるためではない。とはいえ礼はまた聖人を成し遂げる手立てでもあり、学ばなければ成し遂げられない。堯は君疇に学び、舜は務成昭に学び、禹は西王国に学んだ。
解説
聖人にとって礼はもはや窮屈な決まりではなく、心の欲するままに動いてそのまま道にかなう境地になる、というのが舜の言葉の意味です。そこから荀子は、礼が定められたのは賢人から庶民までの人のためであって、聖人を作るためではない、と言います。しかし同時に、礼こそが聖人へ至る道でもあり、学ばなければその境地には届かないと付け加えます。そしてその証拠として、堯は君疇に、舜は務成昭に、禹は西王国に学んだと、聖王すら師について学んだことを挙げます。生まれつき聖人だった者はいない、というのが荀子の一貫した立場です。私たちの学びも同じで、最初は型が窮屈に感じられても、繰り返すうちに型が身体に馴染み、やがて考えずとも自然に振る舞えるようになります。学びの先に自由がある、という順序を忘れずにいたいものです。
この章句が説くこと
欲に従いて治まる学ばざれば成らず堯舜禹の師型と自由聖人
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