荀子 / 大略篇
天子彫弓,諸侯彤弓,大夫黑弓,禮也。
新字:天子彫弓,諸侯彤弓,大夫黒弓,礼也。
書き下し
天子は彫弓、諸侯は彤弓、大夫は黒弓、礼なり。
現代語訳
天子は彫りを施した弓、諸侯は朱塗りの弓、大夫は黒塗りの弓を用いる。これが礼である。
解説
冠、笏に続いて、今度は弓の違いを挙げた一段です。天子は彫刻を施した弓、諸侯は朱塗りの弓、大夫は黒塗りの弓を用いる。弓は狩りや儀礼で用いられ、また功績ある者に下賜される品でもありました。その弓にまで身分ごとの区別があるということは、礼が儀式の場だけでなく、道具の一つひとつにまで行き渡っていたことを示しています。荀子が冠、笏、弓と細かな例を並べるのは、礼が抽象的な理念ではなく、日々手に触れるものの中に具体的に生きている、と示したいからでしょう。私たちの周りでも、道具や設備の使い方、備品の扱いには暗黙の決まりがあります。細部をないがしろにしないことが、全体の秩序を支えている。小さな区別を軽んじないという姿勢そのものが、この一段の教えるところです。
この章句が説くこと
彫弓と彤弓道具と身分細部に宿る礼秩序礼祭祀
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