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荀子 / 君子篇

天子無妻,告人無匹也。四海之內無客禮,告無適也。足能行,待相者然後進;口能言,待官人然後詔。不視而見,不聽而聰,不言而信,不慮而知,不動而功,告至備也。天子也者,埶至重,形至佚,心至愈,志無所詘,形無所勞,尊無上矣。《詩》曰:「普天之下,莫非王土;率土之濱,莫非王臣。」此之謂也。

新字:天子無妻,告人無匹也。四海之內無客礼,告無適也。足能行,待相者然後進;口能言,待官人然後詔。不視而見,不聴而聰,不言而信,不慮而知,不動而功,告至備也。天子也者,埶至重,形至佚,心至愈,志無所詘,形無所労,尊無上矣。《詩》曰:「普天之下,莫非王土;率土之浜,莫非王臣。」此之謂也。

書き下し

天子に妻無しとは、人に匹(ひつ)無きを告ぐるなり。四海の内に客禮(かくれい)無しとは、適(てき)無きを告ぐるなり。足能く行けども、相(たす)くる者を待ちて然る後に進み、口能く言えども、官人を待ちて然る後に詔(みことのり)す。視ずして見え、聽かずして聰(さと)く、言わずして信ぜられ、慮らずして知り、動かずして功あり。至備(しび)を告ぐるなり。天子なる者は、埶(せい)至って重く、形至って佚(いつ)にして、心至って愉しく、志(こころざし)詘(くっ)する所無く、形勞する所無く、尊きこと上(かみ)無し。詩に曰く、「普天(ふてん)の下、王土に非ざるは莫く、率土(そつど)の濱(ひん)、王臣に非ざるは莫し」と。此れ之(こ)れの謂いなり。

現代語訳

天子に妻がいないというのは、天子には並び立つ相手がいないということを言い表したものである。天下のうちに客としての礼が用いられないというのは、天子に対等の相手がいないことを言い表したものである。足は自分で歩けるのに、補佐する者を待ってはじめて進み、口は自分で語れるのに、担当の官を待ってはじめて詔(みことのり)を下す。見ようとしなくても見え、聞こうとしなくても聞こえ、みずから言わなくても信じられ、あれこれ考えなくても分かり、みずから動かなくても功績が上がる。これは、備えが完全に整っていることを言い表したものである。天子というものは、権勢はこの上なく重く、身はこの上なく安らかで、心はこの上なく愉しく、志は屈することがなく、体は疲れることがなく、尊さにおいてその上に立つ者はいない。詩経に「あまねく天の下、王の土地でないところはなく、地の果てに至るまで、王の臣でない者はいない」とあるのは、このことを言うのである。

解説

君子篇の冒頭は、天子という究極の地位のあり方から説き起こされます。妻がいないと言うのは独身という意味ではなく、対等に並び立つ相手がいないという比喩です。同じく、天下に客としての礼がないというのも、天子に匹敵する立場の人がいないことを表しています。興味深いのは、その天子が自分では歩かず、自分では語らないと描かれる点です。足があっても補佐役を待って進み、口があっても担当の官を通じて詔を出す。これは無能だからではなく、仕組みが完全に整っているからだ、と荀子は言います。見ずして見え、動かずして功あり、というのはその結果です。上に立つ者が自分で全部やってしまう組織は、実は整っていない組織です。任せられる人を配し、通すべき筋道を通す。そうして初めて、リーダーは疲れず、しかも成果が上がる。これは今の組織運営にもそのまま当てはまる考え方です。

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