荀子 / 性悪篇
直木不待檃栝而直者,其性直也。枸木必將待檃栝烝矯然後直者,以其性不直也。今人之性惡,必將待聖王之治,禮義之化,然後始出於治,合於善也。用此觀之,人之性惡明矣,其善者偽也。
新字:直木不待檃栝而直者,其性直也。枸木必将待檃栝烝矯然後直者,以其性不直也。今人之性悪,必将待聖王之治,礼義之化,然後始出於治,合於善也。用此観之,人之性悪明矣,其善者偽也。
書き下し
直木(ちょくぼく)の檃栝を待たずして直き者は、其の性直ければなり。枸木の必ず將に檃栝烝矯(いんかつじょうきょう)を待ちて然る後に直からんとする者は、其の性の直からざるを以てなり。今人の性は悪なり、必ず將に聖王の治、礼義の化を待ちて、然る後に始めて治に出で、善に合せんとす。此れを用て之を観れば、人の性の悪なるは明らかなり、其の善なる者は偽なり。
現代語訳
まっすぐな木が矯め木を必要とせずにまっすぐなのは、その性質がまっすぐだからである。曲がった木が、必ず矯め木や蒸して曲げる手当てを待ってはじめてまっすぐになるのは、その性質がまっすぐでないからである。今、人の性は悪である。だから必ず聖王の統治と礼義による感化を待って、はじめて秩序へと向かい、善に合致するのである。こうして見れば、人の性が悪であることは明らかであり、その善は人為によるものなのである。
解説
矯め木の比喩を、逆側から念押しした短い段です。もともとまっすぐな木には矯正など要らない。矯正が必要だという事実こそが、その木が曲がっている証拠なのだ、と。人に聖王の統治や礼義の感化がどうしても要るのなら、それは人がもともとまっすぐではない証拠になります。裏を返せば、荀子は人が矯正によって確かにまっすぐになれることを、少しも疑っていません。曲がった木も、手当てをすれば真っ直ぐになるのです。私たちも、自分に習慣やルールや締切といった「矯め木」が必要なことを、弱さの証拠として恥じることがあります。しかし荀子に言わせれば、それが人間の当たり前の姿であり、矯め木を上手に使える人こそが変わっていける人なのです。