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荀子 / 性悪篇

凡人之欲為善者,為性惡也。夫薄願厚,惡願美,狹願廣,貧願富,賤願貴,苟無之中者,必求於外。故富而不願財,貴而不願埶,苟有之中者,必不及於外。用此觀之,人之欲為善者,為性惡也。今人之性,固無禮義,故彊學而求有之也;性不知禮義,故思慮而求知之也。然則性而已,則人無禮義,不知禮義。人無禮義則亂,不知禮義則悖。然則性而已,則悖亂在己。用此觀之,人之性惡明矣,其善者偽也。

新字:凡人之欲為善者,為性悪也。夫薄願厚,悪願美,狭願広,貧願富,賤願貴,苟無之中者,必求於外。故富而不願財,貴而不願埶,苟有之中者,必不及於外。用此観之,人之欲為善者,為性悪也。今人之性,固無礼義,故彊學而求有之也;性不知礼義,故思慮而求知之也。然則性而已,則人無礼義,不知礼義。人無礼義則乱,不知礼義則悖。然則性而已,則悖乱在己。用此観之,人之性悪明矣,其善者偽也。

書き下し

凡そ人の善を為さんと欲する者は、性の悪なるが為なり。夫れ薄(はく)は厚きを願い、悪(お)は美を願い、狹(せま)きは広きを願い、貧は富を願い、賤(せん)は貴(き)を願う。苟(いやし)くも之(これ)中(うち)に無き者は、必ず外に求む。故に富みては財を願わず、貴くしては埶(せい)を願わず。苟くも之中に有る者は、必ず外に及ばず。此れを用て之を観れば、人の善を為さんと欲するは、性の悪なるが為なり。今人の性、固(もと)より礼義無し、故に彊(つと)めて学びて之を有せんことを求むるなり。性は礼義を知らず、故に思慮して之を知らんことを求むるなり。然らば則ち性のみならば、則ち人に礼義無く、礼義を知らず。人に礼義無ければ則ち乱れ、礼義を知らざれば則ち悖(もと)る。然らば則ち性のみならば、則ち悖乱(はいらん)己(おのれ)に在り。此れを用て之を観れば、人の性の悪なるは明らかなり、其の善なる者は偽なり。

現代語訳

そもそも人が善を行おうと願うのは、その性が悪だからである。薄い者は厚くなることを願い、醜い者は美しくなることを願い、狭い者は広くなることを願い、貧しい者は富むことを願い、身分の低い者は高くなることを願う。もし自分の内に持っていないものであれば、必ず外に求めるのだ。だから富んでいる者は財産を願わず、身分の高い者は権勢を願わない。もし自分の内にすでに持っているものであれば、必ず外にまで求めはしない。こうして見れば、人が善を行おうと願うのは、その性が悪だからなのである。今、人の性にはもともと礼義がない。だから努めて学んでこれを身につけようとするのだ。性は礼義を知らない。だから思索してこれを知ろうとするのだ。とすれば、生まれつきのままであれば、人には礼義がなく、礼義を知らない。人に礼義がなければ乱れ、礼義を知らなければ道理に背く。とすれば、生まれつきのままであれば、道理に背き乱れる原因は自分自身の中にあることになる。こうして見れば、人の性が悪であることは明らかであり、その善は人為によるものなのである。

解説

欲望の構造を突いた、鮮やかな論証です。人は自分に無いものを外に求める。貧しいから富を願い、身分が低いから高くなろうとする。逆に、すでに富んでいる人は財産をことさら願いません。ならば、人が善を願うという事実そのものが、自分の中に善が無いことの証拠ではないか——荀子はそう畳みかけます。求めるという行為は、欠如の裏返しだというわけです。この見方は、私たちの向上心そのものへの光でもあります。何かを強く求めているとき、それは自分に足りないものを正確に教えてくれている。だから、うまくなりたい、認められたいという渇きを恥じる必要はありません。それは学びを起動させる燃料であり、荀子に言わせれば、人が善に向かう出発点そのものなのです。

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