荀子 / 性悪篇
問者曰:「人之性惡,則禮義惡生?」應之曰:凡禮義者,是生於聖人之偽,非故生於人之性也。故陶人埏埴而為器,然則器生於陶人之偽,非故生於人之性也。故工人斲木而成器,然則器生於工人之偽,非故生於人之性也。聖人積思慮,習偽故,以生禮義而起法度,然則禮義法度者,是生於聖人之偽,非故生於人之性也。若夫目好色,耳好聽,口好味,心好利,骨體膚理好愉佚,是皆生於人之情性者也;感而自然,不待事而後生之者也。夫感而不能然,必且待事而後然者,謂之生於偽。是性偽之所生,其不同之徵也。
新字:問者曰:「人之性悪,則礼義悪生?」応之曰:凡礼義者,是生於聖人之偽,非故生於人之性也。故陶人埏埴而為器,然則器生於陶人之偽,非故生於人之性也。故工人斲木而成器,然則器生於工人之偽,非故生於人之性也。聖人積思慮,習偽故,以生礼義而起法度,然則礼義法度者,是生於聖人之偽,非故生於人之性也。若夫目好色,耳好聴,口好味,心好利,骨体膚理好愉佚,是皆生於人之情性者也;感而自然,不待事而後生之者也。夫感而不能然,必且待事而後然者,謂之生於偽。是性偽之所生,其不同之徴也。
書き下し
問う者曰く、「人の性悪ならば、則ち礼義は悪(いず)くにか生ぜん」と。之に応じて曰く、凡そ礼義なる者は、是れ聖人の偽に生ずるものにして、故(もと)より人の性に生ずるに非ざるなり。故に陶人(とうじん)は埴(しょく)を埏(こ)ねて器を為(つく)る、然らば則ち器は陶人の偽に生じて、故より人の性に生ずるに非ざるなり。故に工人は木を斲(き)りて器を成す、然らば則ち器は工人の偽に生じて、故より人の性に生ずるに非ざるなり。聖人は思慮を積み、偽故(ぎこ)を習い、以て礼義を生じて法度を起こす。然らば則ち礼義法度なる者は、是れ聖人の偽に生じて、故より人の性に生ずるに非ざるなり。夫(か)の目の色を好み、耳の聴くを好み、口の味を好み、心の利を好み、骨体膚理(こったいふり)の愉佚(ゆいつ)を好むが若きは、是れ皆(みな)人の情性に生ずる者なり。感じて自然にして、事を待ちて後に之を生ずる者に非ざるなり。夫れ感じて然る能わず、必ず且(まさ)に事を待ちて後に然る者、之を偽に生ずと謂う。是れ性と偽との生ずる所、其の同じからざるの徴(しるし)なり。
現代語訳
質問する者が言った。「人の性が悪だというなら、いったい礼義はどこから生まれてきたのか」と。これに答えて言う。そもそも礼義とは、聖人の人為から生まれたものであって、もともと人の生まれつきの性から生じたものではない。たとえば陶工は粘土をこねて器を作る。とすれば器は陶工の人為から生まれたのであって、もともと人の性から生じたのではない。同じく大工は木を削って器物を作る。とすれば器物は大工の人為から生まれたのであって、もともと人の性から生じたのではない。聖人は思索を積み重ね、人為の技を習い重ねて、そうして礼義を生み出し法制度を立てた。とすれば礼義や法度は、聖人の人為から生まれたのであって、もともと人の性から生じたのではない。一方、目が美しい色を好み、耳が音を好み、口が味を好み、心が利益を好み、身体が快適を好むといったことは、みな人の情性から生じるものである。それは外から感じれば自然にそうなるのであって、努力を待ってはじめて生じるものではない。これに対し、ただ感じるだけではそうならず、必ず努力を待ってはじめてそうなるもの、これを人為から生じたという。これこそが、性と人為の生まれ方の違いを示す証拠なのである。