荀子 / 正名篇
凡人之取也,所欲未嘗粹而來也;其去也,所惡未嘗粹而往也。故人無動而不可以不與權俱。衡不正,則重縣於仰,而人以為輕;輕縣於俛,而人以為重;此人所以惑於輕重也。權不正,則禍託於欲,而人以為福;福託於惡,而人以為禍;此亦人所以惑於禍福也。道者,古今之正權也;離道而內自擇,則不知禍福之所託。易者,以一易一,人曰:無得亦無喪也,以一易兩,人曰:無喪而有得也。以兩易一,人曰:無得而有喪也。計者取所多,謀者從所可。以兩易一,人莫之為,明其數也。從道而出,猶以一易兩也,奚喪!離道而內自擇,是猶以兩易一也,奚得!其累百年之欲,易一時之嫌,然且為之,不明其數也。
新字:凡人之取也,所欲未嘗粋而来也;其去也,所悪未嘗粋而往也。故人無動而不可以不与権倶。衡不正,則重県於仰,而人以為軽;軽県於俛,而人以為重;此人所以惑於軽重也。権不正,則禍託於欲,而人以為福;福託於悪,而人以為禍;此亦人所以惑於禍福也。道者,古今之正権也;離道而内自択,則不知禍福之所託。易者,以一易一,人曰:無得亦無喪也,以一易両,人曰:無喪而有得也。以両易一,人曰:無得而有喪也。計者取所多,謀者従所可。以両易一,人莫之為,明其数也。従道而出,猶以一易両也,奚喪!離道而内自択,是猶以両易一也,奚得!其累百年之欲,易一時之嫌,然且為之,不明其数也。
書き下し
凡そ人の取るや、欲する所未だ嘗て粋として来たらざるなり。其の去るや、悪む所未だ嘗て粋として往かざるなり。故に人は動きて権と倶にせざるべからざるなり。衡正しからざれば、則ち重き仰に県りて、人以て軽しと為し、軽き俛に県りて、人以て重しと為す。此れ人の軽重に惑う所以なり。権正しからざれば、則ち禍い欲に託して、人以て福と為し、福悪に託して、人以て禍いと為す。此れ亦た人の禍福に惑う所以なり。道なる者は、古今の正権なり。道を離れて内より自ら択べば、則ち禍福の託する所を知らず。易うる者は、一を以て一に易うれば、人曰く、得る無く亦た喪う無しと。一を以て両に易うれば、人曰く、喪う無くして得る有りと。両を以て一に易うれば、人曰く、得る無くして喪う有りと。計る者は多き所を取り、謀る者は可なる所に従う。両を以て一に易うるは、人之を為すもの莫し、其の数に明らかなればなり。道に従いて出ずるは、猶お一を以て両に易うるがごとし、奚ぞ喪わんや。道を離れて内より自ら択ぶは、是れ猶お両を以て一に易うるがごとし、奚ぞ得んや。其の百年の欲を累ねて、一時の嫌に易う。然も且つ之を為すは、其の数に明らかならざればなり。
現代語訳
およそ人が何かを取るとき、欲しいものだけが純粋にやって来ることはない。何かを捨てるとき、嫌なものだけが純粋に去っていくこともない。だから人は、行動するときには必ず秤(はかり)を携えていなければならない。秤の竿がゆがんでいれば、重い物をつるしても竿は上を向き、人はそれを軽いと思い、軽い物をつるして竿が下を向けば、人はそれを重いと思う。これが、人が軽重を取り違える理由である。判断の基準がゆがんでいれば、災いが欲望の裏に隠れているのに人はそれを幸福だと思い、幸福が嫌なことの裏に隠れているのに人はそれを災いだと思う。これもまた、人が禍福を取り違える理由である。道こそは、昔も今も変わらない正しい秤である。道から離れて自分の胸の内だけで選べば、禍と福がどこに隠れているのか分からない。物を交換するとき、一つを一つと換えれば、人は得も損もないと言う。一つを二つと換えれば、損はなく得があると言う。二つを一つと換えれば、得はなく損があると言う。計算する者は多いほうを取り、思案する者はよいほうに従う。二つを一つと換える者はいない。その損得の数がはっきり分かっているからである。道に従って行動するのは、一つを二つと換えるようなもので、どうして損があろうか。道を離れて胸の内だけで選ぶのは、二つを一つと換えるようなもので、どうして得があろうか。百年分の欲の積み重ねを、一時の不快を避けるために手放してしまう。それでもそうしてしまうのは、損得の数がはっきり分かっていないからである。
解説
この章句が説くこと
関連する章句
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荀子・不苟篇欲悪取舎の権なり。其の欲す可きを見ては、則ち必ず前後に其の悪む可き者を慮る。其の利す可きを見ては、則ち必ず前後に其の害す可き者を慮る。而して兼ねて之を権り、孰々之を計り、然る後に其の欲悪取舎を定む。是くの如くんば則ち常に失陥せず。凡そ人の患いは、偏傷せらるるなり。其の欲す可きを見ては、則ち其の悪む可き者を慮らず。其の利す可きを見ては、則ち其の害す可き者を顧みず。是を以て動けば則ち必ず陥り、為せば則ち必ず辱めらる。是れ偏傷の患いなり。
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荀子・解蔽篇何をか衡と謂う。曰く、道なり。故に心は以て道を知らざるべからず。心、道を知らざれば、則ち道を可とせずして、道に非ざるを可とす。人、孰か恣ならんことを得んと欲して、其の可とせざる所を守りて、以て其の可とする所を禁ぜんや。其の道を可とせざるの心を以て人を取らば、則ち必ず道ならざる人に合いて、道ある人に合わず。其の道を可とせざるの心を以て、道ならざる人と道ある人を論ずるは、乱の本なり。夫れ何を以て知る。曰く、心、道を知り、然る後に道を可とす。道を可として然る後に道を守りて以て道に非ざるを禁ず。其の道を可とするの心を以て人を取らば、則ち道ある人に合いて、道ならざるの人に合わず。其の道を可とするの心を以て、道ある人と道に非ざるを論ずるは、治の要なり。何ぞ知らざるを患えんや。故に治の要は道を知るに在り。
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荀子・正名篇凡そ人は其の可とする所に従いて、其の不可とする所を去らざるは莫し。道の之に若くもの莫きを知りて、而も道に従わざる者は、之れ有ること無し。仮に人有りて南せんと欲し、多しとする無く、而して北を悪みて、寡なしとする無しとせん。豈に夫の南の尽くすべからざるが為に、南行を離れて北走せんや。今人の欲する所、多しとする無く、悪む所、寡なしとする無し。豈に夫の欲する所の尽くすべからざるが為に、欲を得るの道を離れて、悪む所を取らんや。故に道とすべくして之に従わば、奚ぞ以て之を損じて乱れんや。道とすべからずして之を離れば、奚ぞ以て之を益して治まらんや。故に知者は道を論ずるのみ。小家珍説の願う所の者は皆な衰えん。
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荀子・正名篇凡そ治を語りて欲を去るを待つ者は、欲を道びく無くして有欲に困しむ者なり。凡そ治を語りて欲を寡なくするを待つ者は、欲を節する無くして多欲に困しむ者なり。欲有ると欲無きとは、異類なり、生と死となり、治乱に非ざるなり。欲の多寡は、異類なり、情の数なり、治乱に非ざるなり。欲は得べきを待たずして、求むる者は可とする所に従う。欲の得べきを待たざるは、天に受くる所なり。求むる者の可とする所に従うは、心に受くる所なり。天に受くる所の一欲、心に受くる所の多に制せらる、固より天に受くる所に類し難し。人の生を欲するや甚だしく、人の死を悪むや甚だし。然り而して人に生に従いて死を成す者有るは、生を欲せずして死を欲するに非ざるなり、以て生くべからずして以て死すべければなり。故に欲之に過ぎて動の及ばざるは、心之を止むればなり。心の可とする所理に中れば、則ち欲多しと雖も、奚ぞ治を傷らんや。欲及ばずして動之に過ぐるは、心之をして然らしむればなり。心の可とする所理を失えば、則ち欲寡なしと雖も、奚ぞ乱に止まらんや。故に治乱は心の可とする所に在りて、情の欲する所に亡し。之を其の在る所に求めずして、之を其の亡き所に求むれば、我之を得たりと曰うと雖も、之を失えるなり。
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『淮南子』詮言訓故に治 未だ亂れざるに固からずして、事として治を爲す者は、必ず危うし。行い 未だ非無きに固からずして、急に名を求むる者は、必ず挫くるなり。福は禍無きより大なるは莫く、利は喪わざるより美なるは莫し。動の物たるや、損せずんば則ち益し、成らずんば則ち毀れ、利あらずんば則ち病む。皆な險なり。之を道く者は危うし。故に秦は戎に勝ちて、殽に敗る。楚は諸夏に勝ちて、栢莒に敗る。故に道は勸めて利に就く可からずして、寧ろ害を避く可き者なり。故に常に禍無きも、常に福有らず。常に罪無きも、常に功有らず。聖人は思慮無く、設儲無く、來たる者を迎えず、去る者を將らず。人 東西南北すと雖も、獨り中央に立つ。故に眾枉の中に處りて、其の直を失わず。天下 皆な流るるも、獨り其の壇域を離れず。故に善を爲さず、醜を避けず、天の道に遵う。始めと爲らず、己を專らにせず、天の理に循う。豫め謀らず、時を棄てず、天と期を爲す。得るを求めず、福を辭せず、天の則に從う。無き所を求めず、得たる所を失わず。內に旁禍無く、外に旁福無し。禍福 生ぜず、安んぞ人賊有らんや。
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荀子・解蔽篇聖人は心術の患いを知り、蔽塞の禍を見る。故に欲無く、悪無く、始無く、終無く、近無く、遠無く、博無く、浅無く、古無く、今無し。万物を兼ね陳ねて、中に衡を県く。是の故に衆異は相い蔽いて以て其の倫を乱すことを得ざるなり。
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