荀子 / 正名篇
凡人莫不從其所可,而去其所不可。知道之莫之若也,而不從道者,無之有也。假之有人而欲南,無多;而惡北,無寡,豈為夫南之不可盡也,離南行而北走也哉!今人所欲,無多;所惡,無寡,豈為夫所欲之不可盡也,離得欲之道,而取所惡也哉!故可道而從之,奚以損之而亂?不可道而離之,奚以益之而治?故知者論道而已矣,小家珍說之所願者皆衰矣。
新字:凡人莫不従其所可,而去其所不可。知道之莫之若也,而不従道者,無之有也。仮之有人而欲南,無多;而悪北,無寡,豈為夫南之不可尽也,離南行而北走也哉!今人所欲,無多;所悪,無寡,豈為夫所欲之不可尽也,離得欲之道,而取所悪也哉!故可道而従之,奚以損之而乱?不可道而離之,奚以益之而治?故知者論道而已矣,小家珍説之所願者皆衰矣。
書き下し
凡そ人は其の可とする所に従いて、其の不可とする所を去らざるは莫し。道の之に若くもの莫きを知りて、而も道に従わざる者は、之れ有ること無し。仮に人有りて南せんと欲し、多しとする無く、而して北を悪みて、寡なしとする無しとせん。豈に夫の南の尽くすべからざるが為に、南行を離れて北走せんや。今人の欲する所、多しとする無く、悪む所、寡なしとする無し。豈に夫の欲する所の尽くすべからざるが為に、欲を得るの道を離れて、悪む所を取らんや。故に道とすべくして之に従わば、奚ぞ以て之を損じて乱れんや。道とすべからずして之を離れば、奚ぞ以て之を益して治まらんや。故に知者は道を論ずるのみ。小家珍説の願う所の者は皆な衰えん。
現代語訳
およそ人は、自分が「よし」と認めるところに従い、「よくない」とするところを避けないということはない。道こそが最上だと知っていながら道に従わない、そんな人間はいない。仮にここに、南へ行きたいと願う人がいて、どれだけ南へ行っても行き足りず、北を嫌ってどれだけ北から離れても足りないとしよう。それでも、南へ行き尽くすことができないからといって、南行きをやめて北へ走り出したりするだろうか。今、人の欲するものはいくらあっても多すぎることはなく、嫌うものはどれだけ避けても少なすぎることはない。だからといって、欲するものを満たし尽くせないからといって、欲を正しく満たすための道から離れ、嫌なもののほうを取ったりするだろうか。だから、道とすべきものに従うなら、どうして道を減らして乱れることがあろうか。道とすべきでないものについていくなら、どうしてそれを増やして治まることがあろうか。だから知者は、ただ道を論ずるだけである。そうすれば、小さな一家言を売り物にする珍説の徒が望むところは、みな衰えてしまうだろう。
解説
この章句が説くこと
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荀子・正名篇性なる者は天の就せるなり、情なる者は性の質なり、欲なる者は情の応なり。欲する所を以て得べしと為して之を求むるは、情の必ず免れざる所なり。以て可と為して之を道びくは、知の必ず出ずる所なり。故に守門を為すと雖も、欲は去るべからず、性の具なればなり。天子と為ると雖も、欲は尽くすべからず。欲は尽くすべからずと雖も、以て尽くすに近づくべきなり。欲は去るべからずと雖も、求むるは節すべきなり。欲する所は尽くすべからずと雖も、求むる者は猶お尽くすに近づく。欲は去るべからずと雖も、求めて得ざれば、慮る者は求むるを節せんと欲す。道なる者は、進めば則ち尽くすに近づき、退けば則ち求むるを節す。天下に之に若くもの莫し。
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荀子・正名篇凡そ人の取るや、欲する所未だ嘗て粋として来たらざるなり。其の去るや、悪む所未だ嘗て粋として往かざるなり。故に人は動きて権と倶にせざるべからざるなり。衡正しからざれば、則ち重き仰に県りて、人以て軽しと為し、軽き俛に県りて、人以て重しと為す。此れ人の軽重に惑う所以なり。権正しからざれば、則ち禍い欲に託して、人以て福と為し、福悪に託して、人以て禍いと為す。此れ亦た人の禍福に惑う所以なり。道なる者は、古今の正権なり。道を離れて内より自ら択べば、則ち禍福の託する所を知らず。易うる者は、一を以て一に易うれば、人曰く、得る無く亦た喪う無しと。一を以て両に易うれば、人曰く、喪う無くして得る有りと。両を以て一に易うれば、人曰く、得る無くして喪う有りと。計る者は多き所を取り、謀る者は可なる所に従う。両を以て一に易うるは、人之を為すもの莫し、其の数に明らかなればなり。道に従いて出ずるは、猶お一を以て両に易うるがごとし、奚ぞ喪わんや。道を離れて内より自ら択ぶは、是れ猶お両を以て一に易うるがごとし、奚ぞ得んや。其の百年の欲を累ねて、一時の嫌に易う。然も且つ之を為すは、其の数に明らかならざればなり。
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荀子・正名篇凡そ治を語りて欲を去るを待つ者は、欲を道びく無くして有欲に困しむ者なり。凡そ治を語りて欲を寡なくするを待つ者は、欲を節する無くして多欲に困しむ者なり。欲有ると欲無きとは、異類なり、生と死となり、治乱に非ざるなり。欲の多寡は、異類なり、情の数なり、治乱に非ざるなり。欲は得べきを待たずして、求むる者は可とする所に従う。欲の得べきを待たざるは、天に受くる所なり。求むる者の可とする所に従うは、心に受くる所なり。天に受くる所の一欲、心に受くる所の多に制せらる、固より天に受くる所に類し難し。人の生を欲するや甚だしく、人の死を悪むや甚だし。然り而して人に生に従いて死を成す者有るは、生を欲せずして死を欲するに非ざるなり、以て生くべからずして以て死すべければなり。故に欲之に過ぎて動の及ばざるは、心之を止むればなり。心の可とする所理に中れば、則ち欲多しと雖も、奚ぞ治を傷らんや。欲及ばずして動之に過ぐるは、心之をして然らしむればなり。心の可とする所理を失えば、則ち欲寡なしと雖も、奚ぞ乱に止まらんや。故に治乱は心の可とする所に在りて、情の欲する所に亡し。之を其の在る所に求めずして、之を其の亡き所に求むれば、我之を得たりと曰うと雖も、之を失えるなり。
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荀子・解蔽篇何をか衡と謂う。曰く、道なり。故に心は以て道を知らざるべからず。心、道を知らざれば、則ち道を可とせずして、道に非ざるを可とす。人、孰か恣ならんことを得んと欲して、其の可とせざる所を守りて、以て其の可とする所を禁ぜんや。其の道を可とせざるの心を以て人を取らば、則ち必ず道ならざる人に合いて、道ある人に合わず。其の道を可とせざるの心を以て、道ならざる人と道ある人を論ずるは、乱の本なり。夫れ何を以て知る。曰く、心、道を知り、然る後に道を可とす。道を可として然る後に道を守りて以て道に非ざるを禁ず。其の道を可とするの心を以て人を取らば、則ち道ある人に合いて、道ならざるの人に合わず。其の道を可とするの心を以て、道ある人と道に非ざるを論ずるは、治の要なり。何ぞ知らざるを患えんや。故に治の要は道を知るに在り。
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『淮南子』詮言訓道を釋てて智に任ずる者は必ず危うし。數を棄てて才を用うる者は必ず困しむ。欲 多きを以て亡ぶ者有るも、未だ無欲を以て危うき者有らざるなり。治めんと欲するを以て亂るる者有るも、未だ常を守るを以て失う者有らざるなり。故に智も患を免るるに足らず、愚も以て寧きを失うに至るに足らず。其の分を守り、其の理に循い、之を失いて憂えず、之を得て喜ばず。故に成る者は爲す所に非ざるなり。得る者は求むる所に非ざるなり。入る者は受くる有りて取る無く、出づる者は授くる有りて予うる無し。春に因りて生じ、秋に因りて殺す。生ずる所の者を德とせず、殺す所の者を怨みとせざれば、則ち道に幾し。
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荀子・正名篇君子の言は、渉然として精しく、俛然として類し、差差然として斉し。彼は其の名を正し、其の辞を当てて、以て其の志義を白らかにするを務むる者なり。彼の名辞なる者は、志義の使いなり。以て相通ずるに足れば、則ち之を舎く。之を苟くもするは、姦なり。故に名は以て実を指すに足り、辞は以て極を見わすに足れば、則ち之を舎く。是を外るる者は、之を訒と謂う。是れ君子の棄つる所にして、愚者は拾いて以て己が宝と為す。故に愚者の言は、芴然として粗く、嘖然として類せず、誻誻然として沸く。彼は其の名を誘き、其の辞を眩まして、其の志義に深きこと無き者なり。故に窮まり藉りて極まり無く、甚だ労して功無く、貪りて名無し。故に知者の言や、之を慮るに知り易く、之を行うに安んじ易く、之を持するに立ち易し。成れば則ち必ず其の好む所を得て、其の悪む所に遇わず。而して愚者は是に反す。詩に曰く、「鬼と為り蜮と為らば、則ち得べからず。靦たる面目有り、人を視ること罔極なり。此の好歌を作りて、以て反側を極む」と。此れ之を謂うなり。
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