荀子 / 正名篇
凡語治而待去欲者,無以道欲而困於有欲者也。凡語治而待寡欲者,無以節欲而困於多欲者也。有欲無欲,異類也,生死也,非治亂也。欲之多寡,異類也,情之數也,非治亂也。欲不待可得,而求者從所可。欲不待可得,所受乎天也;求者從所可,所受乎心也。所受乎天之一欲,制於所受乎心之多,固難類所受乎天也。人之所欲生甚矣,人之惡死甚矣;然而人有從生成死者,非不欲生而欲死也,不可以生而可以死也。故欲過之而動不及,心止之也。心之所可中理,則欲雖多,奚傷於治?欲不及而動過之,心使之也。心之所可失理,則欲雖寡,奚止於亂?故治亂在於心之所可,亡於情之所欲。不求之其所在,而求之其所亡,雖曰我得之,失之矣。
新字:凡語治而待去欲者,無以道欲而困於有欲者也。凡語治而待寡欲者,無以節欲而困於多欲者也。有欲無欲,異類也,生死也,非治乱也。欲之多寡,異類也,情之数也,非治乱也。欲不待可得,而求者従所可。欲不待可得,所受乎天也;求者従所可,所受乎心也。所受乎天之一欲,制於所受乎心之多,固難類所受乎天也。人之所欲生甚矣,人之悪死甚矣;然而人有従生成死者,非不欲生而欲死也,不可以生而可以死也。故欲過之而動不及,心止之也。心之所可中理,則欲雖多,奚傷於治?欲不及而動過之,心使之也。心之所可失理,則欲雖寡,奚止於乱?故治乱在於心之所可,亡於情之所欲。不求之其所在,而求之其所亡,雖曰我得之,失之矣。
書き下し
凡そ治を語りて欲を去るを待つ者は、欲を道びく無くして有欲に困しむ者なり。凡そ治を語りて欲を寡なくするを待つ者は、欲を節する無くして多欲に困しむ者なり。欲有ると欲無きとは、異類なり、生と死となり、治乱に非ざるなり。欲の多寡は、異類なり、情の数なり、治乱に非ざるなり。欲は得べきを待たずして、求むる者は可とする所に従う。欲の得べきを待たざるは、天に受くる所なり。求むる者の可とする所に従うは、心に受くる所なり。天に受くる所の一欲、心に受くる所の多に制せらる、固より天に受くる所に類し難し。人の生を欲するや甚だしく、人の死を悪むや甚だし。然り而して人に生に従いて死を成す者有るは、生を欲せずして死を欲するに非ざるなり、以て生くべからずして以て死すべければなり。故に欲之に過ぎて動の及ばざるは、心之を止むればなり。心の可とする所理に中れば、則ち欲多しと雖も、奚ぞ治を傷らんや。欲及ばずして動之に過ぐるは、心之をして然らしむればなり。心の可とする所理を失えば、則ち欲寡なしと雖も、奚ぞ乱に止まらんや。故に治乱は心の可とする所に在りて、情の欲する所に亡し。之を其の在る所に求めずして、之を其の亡き所に求むれば、我之を得たりと曰うと雖も、之を失えるなり。
現代語訳
およそ政治を論ずるのに、欲望を無くすことを前提とする者は、欲望を導く方法をもたず、欲望があること自体に困り果てているだけの者である。政治を論ずるのに、欲望を少なくすることを前提とする者は、欲望を節する方法をもたず、欲望が多いことに困り果てているだけの者である。欲があるか無いかは、生きているか死んでいるかという別種の問題であって、世の治乱の問題ではない。欲が多いか少ないかも、人情の自然な度合いという別種の問題であって、治乱の問題ではない。欲望は、実現できるかどうかにかかわらず湧いてくるが、実際に追い求めるときは、心が「よし」と認めたところに従う。欲望が実現の可否を待たずに湧くのは、天から受けたものだからである。追い求めるときに心の認めるところに従うのは、心から受けたものだからである。天から受けた一つの欲望は、心から受けた多くの判断によって制御される。もともと両者を同じ種類のものとして扱うことはできない。人が生きたいと願う気持ちは甚だ強く、死を憎む気持ちも甚だ強い。それでも、生きようとしながら死を選ぶ人がいるのは、生きたくないのでも死にたいのでもなく、そのようにしては生きられず、そうすることでこそ死ぬべきだからである。だから、欲望のほうが強いのに行動がそこまで及ばないのは、心がそれを止めているからである。心が「よし」と認めるところが道理に当たっていれば、欲望が多くても、どうして治世を損なうことがあろうか。逆に、欲望はさほど強くないのに行動が度を越すのは、心がそうさせているからである。心の認めるところが道理を外れていれば、欲望が少なくても、どうして乱れが止まろうか。だから治乱は、心が何を「よし」と認めるかにかかっているのであって、情がどれだけ欲するかにあるのではない。問題のあるところを探さずに、問題のないところを探しているのだから、答えを得たと思っても、じつは取り逃がしているのである。