荀子 / 正名篇
君子之言,涉然而精,俛然而類,差差然而齊。彼正其名,當其辭,以務白其志義者也。彼名辭也者,志義之使也,足以相通,則舍之矣。苟之,姦也。故名足以指實,辭足以見極,則舍之矣。外是者,謂之訒,是君子之所棄,而愚者拾以為己寶。故愚者之言,芴然而粗,嘖然而不類,誻誻然而沸,彼誘其名,眩其辭,而無深於其志義者也。故窮藉而無極,甚勞而無功,貪而無名。故知者之言也,慮之易知也,行之易安也,持之易立也,成則必得其所好,而不遇其所惡焉。而愚者反是。《詩》曰:「為鬼為蜮,則不可得。有靦面目,視人罔極。作此好歌,以極反側。」此之謂也。
新字:君子之言,渉然而精,俛然而類,差差然而斉。彼正其名,当其辞,以務白其志義者也。彼名辞也者,志義之使也,足以相通,則舎之矣。苟之,姦也。故名足以指実,辞足以見極,則舎之矣。外是者,謂之訒,是君子之所棄,而愚者拾以為己宝。故愚者之言,芴然而粗,嘖然而不類,誻誻然而沸,彼誘其名,眩其辞,而無深於其志義者也。故窮藉而無極,甚労而無功,貪而無名。故知者之言也,慮之易知也,行之易安也,持之易立也,成則必得其所好,而不遇其所悪焉。而愚者反是。《詩》曰:「為鬼為蜮,則不可得。有靦面目,視人罔極。作此好歌,以極反側。」此之謂也。
書き下し
君子の言は、渉然として精しく、俛然として類し、差差然として斉し。彼は其の名を正し、其の辞を当てて、以て其の志義を白らかにするを務むる者なり。彼の名辞なる者は、志義の使いなり。以て相通ずるに足れば、則ち之を舎く。之を苟くもするは、姦なり。故に名は以て実を指すに足り、辞は以て極を見わすに足れば、則ち之を舎く。是を外るる者は、之を訒と謂う。是れ君子の棄つる所にして、愚者は拾いて以て己が宝と為す。故に愚者の言は、芴然として粗く、嘖然として類せず、誻誻然として沸く。彼は其の名を誘き、其の辞を眩まして、其の志義に深きこと無き者なり。故に窮まり藉りて極まり無く、甚だ労して功無く、貪りて名無し。故に知者の言や、之を慮るに知り易く、之を行うに安んじ易く、之を持するに立ち易し。成れば則ち必ず其の好む所を得て、其の悪む所に遇わず。而して愚者は是に反す。詩に曰く、「鬼と為り蜮と為らば、則ち得べからず。靦たる面目有り、人を視ること罔極なり。此の好歌を作りて、以て反側を極む」と。此れ之を謂うなり。
現代語訳
君子の言葉は、深く行き渡って精密であり、控えめでありながら筋道が通り、不ぞろいに見えてじつは整っている。君子は名を正し、言葉づかいを的確にして、自分の考えと道理を明らかにしようと努める者である。そもそも名や言葉は、考えと道理を運ぶ使者にすぎない。互いに通じ合うのに十分であれば、そこでもう手を止める。そこをいい加減に飾り立てるのは、よこしまである。だから、名が実体を指すのに十分であり、言葉が要点を示すのに十分であれば、そこでやめる。それを超えて言葉をこね回すことを「訒(もったいぶり)」といい、君子が捨てるものである。ところが愚か者は、それを拾い上げて自分の宝物にする。だから愚か者の言葉は、ぼんやりとして粗く、やかましいばかりで筋が通らず、べらべらと沸き立つ。彼は名で人を引きつけ、言葉で人を眩ませるだけで、考えにも道理にも深みがない。だからいくら言葉を尽くしても行き着く先がなく、ひどく骨を折っても成果がなく、名声を貪ってもかえって名は上がらない。これに対して知者の言葉は、考えてみれば分かりやすく、行ってみれば落ち着きやすく、守り続けやすい。成し遂げれば必ず望むものを得て、嫌なものには出会わない。愚か者はその反対である。詩経に「化け物や水の妖怪になってしまえば、姿を捉えることはできない。だが人の顔をしていながら、人を見る目つきに果てしがない。そこでこの歌を作って、その心のねじけを見きわめて示すのだ」とあるのは、このことをいうのである。