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荀子 / 正名篇

「見侮不辱」,「聖人不愛己」,「殺盜非殺人也」,此惑於用名以亂名者也。驗之所為有名,而觀其孰行,則能禁之矣。「山淵平」,「情欲寡」,「芻豢不加甘,大鐘不加樂」,此惑於用實,以亂名者也。驗之所緣無以同異,而觀其孰調,則能禁之矣。「非而謁楹」,「有牛馬非馬也,」此惑於用名以亂實者也。驗之名約,以其所受,悖其所辭,則能禁之矣。

新字:「見侮不辱」,「聖人不愛己」,「殺盗非殺人也」,此惑於用名以乱名者也。験之所為有名,而観其孰行,則能禁之矣。「山淵平」,「情欲寡」,「芻豢不加甘,大鐘不加楽」,此惑於用実,以乱名者也。験之所縁無以同異,而観其孰調,則能禁之矣。「非而謁楹」,「有牛馬非馬也,」此惑於用名以乱実者也。験之名約,以其所受,悖其所辞,則能禁之矣。

書き下し

「侮らるるも辱められず」、「聖人は己を愛せず」、「盗を殺すは人を殺すに非ざるなり」、此れ名を用いて以て名を乱すに惑える者なり。之を名有る所以に験して、其の孰れか行わるるを観れば、則ち能く之を禁ぜん。「山淵平らかなり」、「情の欲は寡なし」、「芻豢も甘を加えず、大鐘も楽を加えず」、此れ実を用いて以て名を乱すに惑える者なり。之を縁りて以て同異する所に験して、其の孰れか調うを観れば、則ち能く之を禁ぜん。「非而謁楹」、「牛馬有るは馬に非ざるなり」、此れ名を用いて以て実を乱すに惑える者なり。之を名約に験し、其の受くる所を以て、其の辞する所に悖れば、則ち能く之を禁ぜん。

現代語訳

「侮辱を受けても恥辱にはならない」「聖人は自分を愛さない」「盗賊を殺すのは人を殺すことではない」。これらは、名を用いて名を乱すことに惑わされた説である。これらを、そもそも名が何のためにあるのかという原則に照らし、どちらの言い方が実際に通用するかを見れば、こうした説を禁じることができる。「山と沢は同じ高さで平らだ」「人の情の欲望は少ないものだ」「上等の肉も特にうまいわけではなく、大きな鐘も特に楽しいわけではない」。これらは、実(事実)を持ち出して名を乱すことに惑わされた説である。これらを、何にもとづいて同異を分けるのかという原則に照らし、どちらが実際の感覚と調和するかを見れば、禁じることができる。「非而謁楹」「牛馬というものはあるが、それは馬ではない」。これらは、名を用いて実を乱すことに惑わされた説である。これらを、名の取り決めに照らし、その者が受け入れている言い方をもとに、その者が退けている言い方の矛盾を突けば、禁じることができる。

解説

当時流行していた詭弁を、荀子が三つの型に整理して切り捨てる段です。この三つの型は「三惑」と呼ばれます。第一は名を用いて名を乱すもので、「侮辱されても辱めにはならない」といった言い方。第二は事実を持ち出して名を乱すもので、「山と沢は平らだ」のように、ふつうの感覚を無視した言い方。第三は名を用いて実を乱すもので、「牛馬は馬ではない」のような言葉遊びです。見事なのは荀子の反論の作法で、その場の理屈で応戦するのではなく、名は何のためにあるのか、同異は何にもとづくのか、取り決めはどうなっているのかという原点に照らせと言います。奇抜な主張や巧みなレトリックに出会ったとき、目的と原則に立ち返って検証する。今日の議論でもそのまま使える型です。

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