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荀子 / 解蔽篇

夏首之南有人焉;曰涓蜀梁。其為人也,愚而善畏。明月而宵行,俯見其影,以為伏鬼也;仰視其髮,以為立魅也。背而走,比至其家,失氣而死。豈不哀哉!凡人之有鬼也,必以其感忽之間,疑玄之時定之。此人之所以無有而有無之時也,而己以定事。故傷於濕而痺,痺而擊鼓烹豚,則必有敝鼓喪豚之費矣,而未有俞疾之福也。故雖不在夏首之南,則無以異矣。

新字:夏首之南有人焉;曰涓蜀梁。其為人也,愚而善畏。明月而宵行,俯見其影,以為伏鬼也;仰視其髪,以為立魅也。背而走,比至其家,失気而死。豈不哀哉!凡人之有鬼也,必以其感忽之間,疑玄之時定之。此人之所以無有而有無之時也,而己以定事。故傷於湿而痺,痺而擊鼓烹豚,則必有敝鼓喪豚之費矣,而未有俞疾之福也。故雖不在夏首之南,則無以異矣。

書き下し

夏首の南に人有り、涓蜀梁と曰う。其の人と為りや、愚にして善く畏る。明月にして宵行き、俯して其の影を見て、以て伏鬼と為し、仰ぎて其の髪を視て、以て立魅と為す。背きて走り、其の家に至るに比びて、気を失いて死す。豈に哀しからずや。凡そ人の鬼有りとするや、必ず其の感忽の間、疑玄の時を以て之を定む。此れ人の無きを有りとし、有るを無しとするの時なり。而るに己は以て事を定む。故に湿に傷られて痺え、痺えて鼓を撃ち豚を烹れば、則ち必ず鼓を敝り豚を喪うの費え有らんも、而も未だ疾の癒ゆるの福有らざるなり。故に夏首の南に在らずと雖も、則ち以て異なること無きなり。

現代語訳

夏首の南に一人の男がいた。名を涓蜀梁という。この男は愚かで、ひどく怖がりだった。月の明るい夜に道を歩いていて、うつむいて自分の影を見て、鬼がうずくまっていると思い込み、見上げて自分の髪を見て、化け物が立っていると思い込んだ。背を向けて走り出し、家にたどり着いたところで、息が絶えて死んでしまった。なんと哀れなことではないか。およそ人が鬼がいると思い込むのは、必ずぼんやりとして心の定まらない一瞬、疑わしくはっきりしない時に、そうだと決めつけるからである。これこそ人が、無いものを有ると思い、有るものを無いと思ってしまう瞬間である。ところが本人は、それで物事を決めてしまう。だから、湿気にやられてしびれを病んだとき、しびれたからといって太鼓を打ち鳴らし豚を煮て神に祈れば、太鼓を破り豚を失うという出費だけは必ずあるが、病が癒えるという幸いはやってこない。だから、たとえ夏首の南に住んでいなくても、やっていることに違いはないのである。

解説

自分の影を鬼と見誤り、自分の髪を化け物と見て、逃げ帰って死んだ男の話です。滑稽な寓話に見えますが、荀子の狙いは笑いではありません。人が鬼を見るのは、必ず「ぼんやりとして心の定まらない一瞬、疑わしくはっきりしない時」だ、と分析します。前段の「疑いをもって疑いを決する」が、ここで具体的な悲劇になっているわけです。恐怖の正体は外にあるのではなく、認識が不確かな瞬間に決めつけてしまう心の癖にある。そして結びの一句が痛烈です。湿気にやられてしびれを病んだ人が、太鼓を打ち豚を煮て神に祈る。祈祷の費用だけは確実に出ていくのに、病は治らない。原因を取り違えたまま対策を打てば、コストだけが残るのです。荀子は最後に、「夏首の南に住んでいなくても、やっていることは同じだ」と釘を刺します。自分は迷信とは無縁だと思っている人にこそ、この一句は効きます。不安なとき、私たちは影を鬼と見ていないでしょうか。

この一句を、あなたの毎日に。

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