荀子 / 解蔽篇
心者,形之君也,而神明之主也,出令而無所受令。自禁也,自使也,自奪也,自取也,自行也,自止也。故口可劫而使墨云,形可劫而使詘申,心不可劫而使易意,是之則受,非之則辭。故曰:心容,其擇也無禁,必自現,其物也雜博,其情之至也不貳。《詩》云:「采采卷耳,不盈傾筐。嗟我懷人,寘彼周行。」傾筐易滿也,卷耳易得也,然而不可以貳周行。故曰:心枝則無知,傾則不精,貳則疑惑。以贊稽之,萬物可兼知也。身盡其故則美。類不可兩也,故知者擇一而壹焉。
新字:心者,形之君也,而神明之主也,出令而無所受令。自禁也,自使也,自奪也,自取也,自行也,自止也。故口可劫而使墨云,形可劫而使詘申,心不可劫而使易意,是之則受,非之則辞。故曰:心容,其択也無禁,必自現,其物也雑博,其情之至也不貳。《詩》云:「采采巻耳,不盈傾筐。嗟我懐人,寘彼周行。」傾筐易満也,巻耳易得也,然而不可以貳周行。故曰:心枝則無知,傾則不精,貳則疑惑。以賛稽之,万物可兼知也。身尽其故則美。類不可両也,故知者択一而壱焉。
書き下し
心なる者は、形の君にして、神明の主なり。令を出して令を受くる所無し。自ら禁じ、自ら使い、自ら奪い、自ら取り、自ら行い、自ら止まる。故に口は劫かして黙せしめ云わしむべく、形は劫かして詘めしめ申べしむべきも、心は劫かして意を易えしむべからず。之を是とすれば則ち受け、之を非とすれば則ち辞す。故に曰く、心の容たる、其の択ぶや禁ずる無く、必ず自ら現わる。其の物たるや雑博なるも、其の情の至れるや弐ならず、と。詩に云く、采采たる巻耳、傾筐に盈たず。嗟、我れ人を懐い、彼の周行に寘く、と。傾筐は満たし易きなり、巻耳は得易きなり。然り而して以て周行に弐なるべからず。故に曰く、心枝るれば則ち知る無く、傾けば則ち精ならず、弐なれば則ち疑惑す、と。参を以て之を稽うれば、万物は兼ねて知るべきなり。身、其の故を尽くさば則ち美なり。類は両つながらすべからず、故に知者は一を択びて之を壱にす。
現代語訳
心というものは、身体の君主であり、精神の働きの主人である。命令を出す側であって、どこからも命令を受けることはない。自ら禁じ、自ら働かせ、自ら奪い、自ら取り、自ら進み、自ら止まる。だから口は、力ずくで黙らせることも、しゃべらせることもできる。身体は、力ずくで曲げさせることも、伸ばさせることもできる。しかし心だけは、力ずくで考えを変えさせることができない。心は、正しいと思えば受け入れ、間違っていると思えば拒む。だからこういわれる。心のありようは、選ぶことに何の禁じ手もなく、その選びは必ずおのずと現れる。心が受け取るものは雑多で幅広いが、その本当のところが極まったときには、二つに分かれることがない、と。詩経に「摘んでも摘んでも巻耳は、浅い籠さえいっぱいにならない。ああ、わたしはあの人を思い、籠を大路のかたわらに置いてしまった」とある。浅い籠は満たしやすく、巻耳は摘みやすい。それなのに満たせなかったのは、心が大路(あの人を思う気持ち)と二つに分かれていたからである。だからこういわれる。心が枝分かれすれば何も知ることができず、片方へ傾けば精密でなくなり、二つに分かれれば疑い惑う、と。心を一つにして照らし合わせて調べれば、万物はあまねく知ることができる。わが身がその物事の理由を尽くして究めれば、それこそ美しい。同類のものを二つながらに極めることはできない。だから知者は一つを選んで、それに心を集中するのである。