荀子 / 解蔽篇
聖人知心術之患,見蔽塞之禍,故無欲、無惡、無始、無終、無近、無遠、無博、無淺、無古、無今,兼陳萬物而中縣衡焉。是故眾異不得相蔽以亂其倫也。
新字:聖人知心術之患,見蔽塞之禍,故無欲、無悪、無始、無終、無近、無遠、無博、無浅、無古、無今,兼陳万物而中県衡焉。是故衆異不得相蔽以乱其倫也。
書き下し
聖人は心術の患いを知り、蔽塞の禍を見る。故に欲無く、悪無く、始無く、終無く、近無く、遠無く、博無く、浅無く、古無く、今無し。万物を兼ね陳ねて、中に衡を県く。是の故に衆異は相い蔽いて以て其の倫を乱すことを得ざるなり。
現代語訳
聖人は、人の心の働きにひそむ病を知り、心が塞がれることの災いを見抜いている。だから、欲にも嫌悪にもとらわれず、始めにも終わりにもとらわれず、近さにも遠さにもとらわれず、広さにも浅さにもとらわれず、昔にも今にもとらわれない。あらゆる物事を並べて見わたし、そのまん中に一本の秤を掛ける。だからこそ、さまざまに異なる物事がたがいに相手を覆い隠して、そのすじみちを乱すということがないのである。
解説
第二段で並べた十の覆いを、そっくりそのまま裏返した一段です。聖人は欲にも嫌悪にも、遠近にも古今にもとらわれない。ただし、これは何も感じない、何も知らないという意味ではありません。続く「万物を兼ね陳ねて、中に衡を県く」が答えです。すべてを並べて見わたし、その中央に秤を掛ける。つまり、どれか一つを排除するのではなく、全部をテーブルに載せたうえで、共通の物差しで測るのです。とらわれからの脱出は、対象を減らすことではなく、測る基準を持つことによって果たされます。この「衡」が何なのかは、次の段で明かされます。実務でいえば、選択肢を一つに絞って考えるのではなく、いったん全部を並べ、評価の軸を先に決めてから比べる、というやり方に近い。判断に迷ったとき、選択肢が足りないのか、それとも比べる物差しが定まっていないのか。荀子はここで、後者こそが本当の問題だと示しています。
この章句が説くこと
兼陳万物中に衡を県く公平な物差しとらわれを離れる
関連する章句
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荀子・解蔽篇故に蔽を為すは、欲も蔽と為り、悪も蔽と為り、始も蔽と為り、終も蔽と為り、遠も蔽と為り、近も蔽と為り、博も蔽と為り、浅も蔽と為り、古も蔽と為り、今も蔽と為る。凡そ万物、異なれば則ち相い蔽と為らざるは莫し。此れ心術の公患なり。
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荀子・解蔽篇凡そ人の患いは、一曲に蔽われて、大理に闇きことなり。治まれば則ち経に復り、両つながら疑えば則ち惑う。天下に二道無く、聖人に両心無し。今、諸侯は政を異にし、百家は説を異にす。則ち必ず或いは是、或いは非、或いは治、或いは乱なり。乱国の君、乱家の人、此れ其の誠心、正を求めて以て自ら為さんとせざるは莫きなり。道に妒繆して、人其の迨ぶ所に誘わる。其の積む所を私して、唯だ其の悪を聞かんことを恐る。其の私する所に倚りて、以て異術を観て、唯だ其の美を聞かんことを恐る。是を以て治とは背き走ると雖も、而も己を是とすること輟めざるなり。豈に一曲に蔽われて、正しき求めを失うに非ずや。心、焉に使わずんば、則ち白黒前に在れども目は見えず、雷鼓側に在れども耳は聞こえず、況んや使う者に於いてをや。徳道の人は、乱国の君は之を上に非とし、乱家の人は之を下に非とす。豈に哀しからずや。
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荀子・解蔽篇之を為すも成るに益無く、之を求むるも得るに益無く、之を憂戚するも幾に益無くば、則ち広焉として能く之を棄てん。以て自ら妨げず、少頃も之を胸中に干さず。往を慕わず、来を閔えず、邑憐の心無し。時に当たれば則ち動き、物至れば而ち応じ、事起これば而ち辨ず。治乱可否、昭然として明らかなり。
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荀子・解蔽篇何をか衡と謂う。曰く、道なり。故に心は以て道を知らざるべからず。心、道を知らざれば、則ち道を可とせずして、道に非ざるを可とす。人、孰か恣ならんことを得んと欲して、其の可とせざる所を守りて、以て其の可とする所を禁ぜんや。其の道を可とせざるの心を以て人を取らば、則ち必ず道ならざる人に合いて、道ある人に合わず。其の道を可とせざるの心を以て、道ならざる人と道ある人を論ずるは、乱の本なり。夫れ何を以て知る。曰く、心、道を知り、然る後に道を可とす。道を可として然る後に道を守りて以て道に非ざるを禁ず。其の道を可とするの心を以て人を取らば、則ち道ある人に合いて、道ならざるの人に合わず。其の道を可とするの心を以て、道ある人と道に非ざるを論ずるは、治の要なり。何ぞ知らざるを患えんや。故に治の要は道を知るに在り。
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荀子・解蔽篇昔、賓孟の蔽われし者は、乱家是れなり。墨子は用に蔽われて文を知らず。宋子は欲に蔽われて得を知らず。慎子は法に蔽われて賢を知らず。申子は埶に蔽われて知を知らず。恵子は辞に蔽われて実を知らず。荘子は天に蔽われて人を知らず。故に用に由りて之を道と謂わば、利を尽くさん。欲に由りて之を道と謂わば、嗛を尽くさん。法に由りて之を道と謂わば、数を尽くさん。埶に由りて之を道と謂わば、便を尽くさん。辞に由りて之を道と謂わば、論を尽くさん。天に由りて之を道と謂わば、因を尽くさん。此の数具なる者は、皆な道の一隅なり。夫れ道なる者は、常を体して変を尽くす。一隅は以て之を挙ぐるに足らず。曲知の人は、道の一隅を観て、未だ之を識ること能わざるなり。故に以て足れりと為して之を飾り、内は以て自ら乱し、外は以て人を惑わす。上は以て下を蔽い、下は以て上を蔽う。此れ蔽塞の禍なり。孔子は仁知にして且つ蔽われず。故に乱術を学びて以て先王と為るに足る者なり。一家にして周道を得、挙げて之を用い、成積に蔽われず。故に徳は周公と斉しく、名は三王と並ぶ。此れ蔽われざるの福なり。
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荀子・解蔽篇凡そ以て知るは、人の性なり。知るべきは、物の理なり。以て知るべきの人の性を以て、以て知るべきの物の理を求めて、之を疑い止まる所無くんば、則ち世を没し年を窮むるも徧くすること能わず。其の理を貫く所以のもの億万なりと雖も、已に万物の変に浹きに足らず、愚者と一の若し。学びて身を老いしめ子を長ぜしむるも、而も愚者と一の若く、猶お錯くことを知らざる、夫れ是れを之れ妄人と謂う。故に学ぶ者は、固より止まるを学ぶなり。悪くにか之に止まる。曰く、諸を至足に止む。曷をか至足と謂う。曰く、聖王なり。聖なる者は、倫を尽くす者なり。王なる者は、制を尽くす者なり。両つながら尽くす者は、以て天下の極と為すに足る。故に学ぶ者は聖王を以て師と為し、聖王の制を案じて以て法と為し、其の法に法りて以て其の統類を求め、以て其の人に象効せんことを務む。是に嚮かいて務むるは、士なり。是に類して幾きは、君子なり。之を知るは、聖人なり。故に知有るも以て是を慮るに非ざれば、則ち之を懼と謂う。勇有るも以て是を持するに非ざれば、則ち之を賊と謂う。察孰なるも以て是を分かつに非ざれば、則ち之を篡と謂う。多能なるも以て是を脩蕩するに非ざれば、則ち之を知と謂う。辯利なるも以て是を言うに非ざれば、則ち之を詍と謂う。伝に曰く、天下に二有り、非は是を察し、是は非を察す、と。王制に合うと王制に合わざるとを謂うなり。天下に是を以て隆正と為さざる有らんか、然り而して猶お能く是非を分かち、曲直を治むる者有らんや。
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