荀子 / 解蔽篇
昔人君之蔽者,夏桀殷紂是也。桀蔽於末喜斯觀,而不知關龍逢,以惑其心,而亂其行。紂蔽於妲己、飛廉,而不知微子啟,以惑其心,而亂其行。故群臣去忠而事私,百姓怨非而不用,賢良退處而隱逃,此其所以喪九牧之地,而虛宗廟之國也。桀死於鬲山,紂縣於赤旆。身不先知,人又莫之諫,此蔽塞之禍也。成湯鑒於夏桀,故主其心而慎治之,是以能長用伊尹,而身不失道,此其所以代夏王而受九有也。文王監於殷紂,故主其心而慎治之,是以能長用呂望,而身不失道,此其所以代殷王而受九牧也。遠方莫不致其珍;故目視備色,耳聽備聲,口食備味,形居備宮,名受備號,生則天下歌,死則四海哭。夫是之謂至盛。《詩》曰:「鳳凰秋秋,其翼若干,其聲若簫。有鳳有凰,樂帝之心。」此不蔽之福也。
新字:昔人君之蔽者,夏桀殷紂是也。桀蔽於末喜斯観,而不知関竜逢,以惑其心,而乱其行。紂蔽於妲己、飛廉,而不知微子啓,以惑其心,而乱其行。故群臣去忠而事私,百姓怨非而不用,賢良退処而隠逃,此其所以喪九牧之地,而虚宗廟之国也。桀死於鬲山,紂県於赤旆。身不先知,人又莫之諫,此蔽塞之禍也。成湯鑒於夏桀,故主其心而慎治之,是以能長用伊尹,而身不失道,此其所以代夏王而受九有也。文王監於殷紂,故主其心而慎治之,是以能長用呂望,而身不失道,此其所以代殷王而受九牧也。遠方莫不致其珍;故目視備色,耳聴備声,口食備味,形居備宮,名受備号,生則天下歌,死則四海哭。夫是之謂至盛。《詩》曰:「鳳凰秋秋,其翼若干,其声若簫。有鳳有凰,楽帝之心。」此不蔽之福也。
書き下し
昔、人君の蔽われし者は、夏の桀・殷の紂是れなり。桀は末喜・斯観に蔽われて、関竜逢を知らず、以て其の心を惑わし、其の行いを乱る。紂は妲己・飛廉に蔽われて、微子啓を知らず、以て其の心を惑わし、其の行いを乱る。故に群臣は忠を去りて私に事え、百姓は怨み非りて用いられず、賢良は退き処りて隠れ逃る。此れ其の九牧の地を喪いて、宗廟の国を虚しくせし所以なり。桀は鬲山に死し、紂は赤旆に県らる。身は先に知らず、人も又た之を諫むる莫し。此れ蔽塞の禍なり。成湯は夏桀に鑒みて、故に其の心を主として慎みて之を治む。是を以て能く長く伊尹を用いて、身、道を失わず。此れ其の夏に代わりて王たり九有を受けし所以なり。文王は殷紂に監みて、故に其の心を主として慎みて之を治む。是を以て能く長く呂望を用いて、身、道を失わず。此れ其の殷に代わりて王たり九牧を受けし所以なり。遠方も其の珍を致さざるは莫し。故に目は備色を視、耳は備声を聴き、口は備味を食らい、形は備宮に居り、名は備号を受け、生ければ則ち天下歌い、死すれば則ち四海哭す。夫れ是れを之れ至盛と謂う。詩に曰く、鳳凰は秋秋たり、其の翼は干の若く、其の声は簫の若し。鳳有り凰有り、帝の心を楽しましむ、と。此れ蔽われざるの福なり。
現代語訳
昔、君主として心を覆われた者といえば、夏の桀王と殷の紂王である。桀は末喜と斯観に心を覆われて、忠臣の関竜逢を見る目を失い、そのために心は惑い、行いは乱れた。紂は妲己と飛廉に心を覆われて、賢者の微子啓を見る目を失い、そのために心は惑い、行いは乱れた。こうして家臣たちは忠義を捨てて私利に走り、人民は怨み恨んで用をなさず、すぐれた人物は身を引いて隠れ去った。これが、九州の地を失い、祖先の廟のある国を空っぽにしてしまった理由である。桀は鬲山に死に、紂は赤い旗に首を懸けられた。自分では先に気づかず、人もまた諫めようとしない。これが心を塞がれることの災いである。成湯は夏の桀を鏡として、自分の心を主人の座に据え、慎重に心を治めた。だからこそ長く伊尹を用いつづけ、わが身は道を踏み外さなかった。これが夏に代わって王となり、天下を受け継いだ理由である。文王は殷の紂を鏡として、自分の心を主人の座に据え、慎重に心を治めた。だからこそ長く呂望を用いつづけ、わが身は道を踏み外さなかった。これが殷に代わって王となり、天下を受け継いだ理由である。遠方の国々も珍しい貢ぎ物を差し出さない者はなかった。だから目はあらゆる色を見、耳はあらゆる音を聴き、口はあらゆる味を食し、身はりっぱな宮殿に住まい、名にふさわしい称号を受け、生きていれば天下の人々が歌い、死ねば四海の人々が泣いた。これこそ、この上ない盛んなさまというものだ。詩経に「鳳凰はゆうゆうと舞い、その翼は盾のよう、その声は簫の音のよう。鳳がおり凰がおり、天帝の心を楽しませる」とあるのは、心を覆われないことの幸福をいうのである。
解説
この章句が説くこと
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『春秋左氏伝』襄公三十一年 美錦を学ばしめず子皮尹何をして邑を為めしめんと欲す。子產曰く、「少し。未だ可否を知らず」と。子皮曰く、「愿なり。吾之を愛す。吾に叛かざるなり。夫をして往きて學ばしめば、夫も亦た愈〻治を知らん」と。子產曰く、「不可なり。人の人を愛するは、之を利せんことを求むるなり。今吾子人を愛するに則ち政を以てす。猶ほ未だ刀を操ること能はずして割かしむるがごときなり。其の傷つくること實に多からん。子の人を愛する、之を傷つくるのみ。其れ誰か敢へて愛を子に求めん。子の鄭國に於けるや、棟なり。棟折れ榱崩るれば、僑將に厭されんとす。敢へて言を盡くさざらんや。子に美錦有らば、人をして製するを學ばしめず。大官大邑は、身の庇ふ所なり。而るに學者をして製せしむ。其の美錦為るや、亦た多からずや。僑聞く、學びて而る後に政に入ると。未だ政を以て學ぶ者を聞かざるなり。若し果たして此を行はば、必ず害する所有らん。譬へば田獵の如し。射御貫るれば、則ち能く禽を獲。若し未だ嘗て車に登りて射御せずんば、則ち敗績厭覆を是れ懼れん。何の暇ありてか獲るを思はん」と。子皮曰く、「善いかな。虎不敏なり。吾聞く、君子は大なる者遠き者を知るに務め、小人は小なる者近き者を知るに務むと。我は小人なり。衣服の吾が身に附在するは、我知りて之を慎む。大官大邑は、身を庇ふ所以なり。我遠ざけて之を慢る。子の言微かりせば、吾知らざりしなり。他日、我曰へり、『子は鄭國を為め、我は吾が家を為めて、以て庇はば其れ可なり』と。今にして後に足らざるを知る。今より請ふ、吾が家と雖も子に聽きて行はん」と。子產曰く、「人心の同じからざるは、其の面の如し。吾豈に敢へて子の面吾が面の如しと謂はんや。抑〻心に危ふしと謂ふ所は、亦た以て告ぐるなり」と。子皮以て忠と為す。故に政を委ぬ。子產是を以て能く鄭國を為む。
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史記 呉王濞列伝司馬と為るを得、独り周丘のみ用ひらるるを得ず。周丘は、下邳の人なり。呉に亡命し、酒を酤りて行ひ無し。呉王濞之を薄んじ、任ぜず。周丘上謁し、王に説きて曰く、「臣無能を以て、罪を行間に待つを得ず。臣敢へて将ゐる所有るを求むるに非ず。願はくは王の一漢節を得ば、必ず以て王に報ゆる有らん」と。王乃ち之に予ふ。周丘節を得て、夜馳せて下邳に入る。下邳時に呉の反するを聞き、皆城守す。伝舎に至り、令を召す。令戸に入るや、従者をして罪を以て令を斬らしむ。遂に昆弟の善くする所の豪吏を召して告げて曰く、「呉の反兵且に至らんとす。至らば、下邳を屠ること食頃に過ぎざらん。今先に下らば、家室必ず完からん。能ある者は侯に封ぜられん」と。出でて乃ち相告げ、下邳皆下る。周丘一夜にして三万人を得、人をして呉王に報ぜしめ、遂に其の兵を将ゐて北のかた城邑を略す。城陽に至る比、兵十余万、城陽の中尉の軍を破る。呉王の敗走するを聞き、自ら度るに与に功を成す無しと、即ち兵を引きて下邳に帰る。未だ至らずして、疽背に発して死す。二月中、呉王の兵既に破れ、敗走す。是に於て天子将軍に制詔して曰く、「蓋し聞く、善を為す者は天之に報ゆるに福を以てし、非を為す者は天之に報ゆるに殃を以てすと。高皇帝親ら功徳を表し、諸侯を建立す。幽王・悼恵王は絶えて後無し。孝文皇帝哀憐して恵を加へ、幽王の子遂・悼恵王の子卬等を王とし、其の先王の宗廟を奉ぜしめ、漢の藩国と為す。徳は天地に配し、明は日月に并ぶ。呉王濞は徳に倍き義に反し、天下の亡命の罪人を誘ひ受け、天下の幣を乱し、病と称して朝せざること二十余年。有司数々濞の罪を請ふも、孝文皇帝之を寛し、其の行ひを改めて善を為さんことを欲す。
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『長短経』知人〔桓範曰く「夫れ帝王の君、歴代相踵ぎ、覇王の賢に任ずるを慕い、亡国の士を失うを悪まざるは莫し。然り而して猶お凶愚に任を授け、破亡相属くは、其の故は何ぞや。人を取るに道に合うを求めずして、己に合うを求むるに由るなり」と。
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