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荀子 / 礼論篇

君之喪,所以取三年,何也?曰:君者、治辨之主也,文理之原也,情貌之盡也,相率而致隆之,不亦可乎?《詩》曰:「愷悌君子,民之父母。」彼君子者,固有為民父母之說焉。父能生之,不能養之;母能食之,不能教誨之;君者,已能食之矣,又善教誨之者也。三年畢矣哉!乳母、飲食之者也,而三月;慈母、衣被之者也,而九月;君曲備之者也,三年畢乎哉!得之則治,失之則亂,文之至也。得之則安,失之則危,情之至也。兩至者俱積焉,以三年事之,猶未足也,直無由進之耳。故社,祭社也;稷、祭稷也;郊者,並百王於上天而祭祀之也。

新字:君之喪,所以取三年,何也?曰:君者、治辨之主也,文理之原也,情貌之尽也,相率而致隆之,不亦可乎?《詩》曰:「愷悌君子,民之父母。」彼君子者,固有為民父母之説焉。父能生之,不能養之;母能食之,不能教誨之;君者,已能食之矣,又善教誨之者也。三年畢矣哉!乳母、飲食之者也,而三月;慈母、衣被之者也,而九月;君曲備之者也,三年畢乎哉!得之則治,失之則乱,文之至也。得之則安,失之則危,情之至也。両至者俱積焉,以三年事之,猶未足也,直無由進之耳。故社,祭社也;稷、祭稷也;郊者,並百王於上天而祭祀之也。

書き下し

君の喪、三年を取る所以は、何ぞや。曰く、君なる者は、治辨の主なり、文理の原なり、情貌の尽くる所なり。相ひ率ゐて之を隆くするを致すも、亦た可ならずや。詩に曰く、愷悌の君子は、民の父母、と。彼の君子なる者は、固より民の父母たるの説有り。父は能く之を生むも、之を養ふ能はず。母は能く之を食ましむるも、之を教誨する能はず。君なる者は、已に能く之を食ましめ、又た善く之を教誨する者なり。三年にして畢はらんや。乳母は之を飲食せしむる者なるも、而も三月なり。慈母は之を衣被する者なるも、而も九月なり。君は曲さに之を備ふる者なり、三年にして畢はらんや。之を得れば則ち治まり、之を失へば則ち乱る、文の至りなり。之を得れば則ち安く、之を失へば則ち危ふし、情の至りなり。両つの至れる者倶に積もれば、三年を以て之に事ふるも、猶ほ未だ足らず。直だ之を進むるに由無きのみ。故に社は、社を祭るなり。稷は、稷を祭るなり。郊なる者は、百王を上天に並べて之を祭祀するなり。

現代語訳

君主の喪に三年を取るのはなぜか。君主とは、世を治め物事を分かつ主であり、秩序と文化の源であり、人の情と態度が行き着くところである。皆がそろって最も重い喪をささげるのも、当然ではないか。詩に、和やかで慎み深い君子は民の父母である、とある。君子にはもともと、民の父母であるという言い方がある。父は子を生むことはできるが、養うことはできない。母は食べさせることはできるが、教え諭すことはできない。君主は、すでに食べさせ、その上によく教え諭す者である。それが三年で足りるだろうか。乳母は飲食の世話をするだけだが、それでも三か月の喪がある。慈母は衣服を着せる世話をするが、それでも九か月の喪がある。君主はすべてを行き届かせる者である。三年で終わってよいだろうか。君主を得れば世は治まり、失えば乱れる。これが文化の極みである。君主を得れば安らかで、失えば危うい。これが情の極みである。この二つの極みが重なるのだから、三年をもって仕えてもなお足りない。ただ、それ以上に増やす手立てがないだけである。だから社の祭りでは土地の神を祭り、稷の祭りでは穀物の神を祭り、郊の祭りでは代々の王を天とともに祭るのである。

解説

君主の喪がなぜ親と同じ三年なのかを論じた段です。荀子の答えは、その人が果たした役割の大きさに見合うから、というものです。父は生むが養えず、母は食べさせるが教えられない。君主は食べさせ、その上に教え諭す。だから乳母に三か月、慈母に九か月の喪があるのなら、君主に三年でも足りないくらいだ、と言います。ここには荀子らしい発想が表れています。喪の重さは血のつながりだけで決まるのではなく、その人から実際にどれだけのものを受け取ったかで決まる、という考え方です。私たちにも、上司や師や先輩など、血縁ではないけれど自分を育ててくれた人がいます。受けた恩をどう測り、どう返すか。荀子は、恩の大きさに見合った態度を形にすることを勧めます。感謝は心の中に置いておくだけでは伝わらず、形にしてはじめて相手に届くからです。

この一句を、あなたの毎日に。

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