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荀子 / 礼論篇

禮者、斷長續短,損有餘,益不足,達愛敬之文,而滋成行義之美者也。故文飾、麤惡,聲樂、哭泣,恬愉、憂戚;是反也;然而禮兼而用之,時舉而代御。故文飾、聲樂、恬愉,所以持平奉吉也;麤惡、哭泣、憂戚,所以持險奉凶也。故其立文飾也,不至於窕冶;其立麤惡也,不至於瘠棄;其立聲樂、恬愉也,不至於流淫、惰慢;其立哭泣、哀戚也,不至於隘懾傷生,是禮之中流也。

新字:礼者、断長続短,損有余,益不足,達愛敬之文,而滋成行義之美者也。故文飾、麤悪,声楽、哭泣,恬愉、憂戚;是反也;然而礼兼而用之,時舉而代御。故文飾、声楽、恬愉,所以持平奉吉也;麤悪、哭泣、憂戚,所以持険奉凶也。故其立文飾也,不至於窕冶;其立麤悪也,不至於瘠棄;其立声楽、恬愉也,不至於流淫、惰慢;其立哭泣、哀戚也,不至於隘懾傷生,是礼之中流也。

書き下し

礼なる者は、長きを断ちて短きを続ぎ、余り有るを損し、足らざるを益し、愛敬の文を達し、而して行義の美を滋し成す者なり。故に文飾と麤悪、声楽と哭泣、恬愉と憂戚とは、是れ反するなり。然れども礼は兼ねて之を用ひ、時に挙げて代はる代はる御ふ。故に文飾・声楽・恬愉は、平を持して吉に奉ずる所以なり。麤悪・哭泣・憂戚は、険を持して凶に奉ずる所以なり。故に其の文飾を立つるや、窕冶に至らず。其の麤悪を立つるや、瘠棄に至らず。其の声楽・恬愉を立つるや、流淫・惰慢に至らず。其の哭泣・哀戚を立つるや、隘懾して生を傷るに至らず。是れ礼の中流なり。

現代語訳

礼とは、長すぎるものを断ち、短すぎるものを継ぎ足し、余っているものを減らし、足りないものを補って、愛と敬いの表現を行き渡らせ、正しい行いの美しさを育て上げるものである。だから、美しい飾りと粗末な装い、音楽と泣き声、くつろぎと悲しみとは、たがいに正反対である。それでも礼はその両方を用い、時に応じて交互に使い分ける。美しい飾り、音楽、くつろぎは、平穏を保って吉事にあてるためのものであり、粗末な装い、泣き声、悲しみは、困難を支えて凶事にあてるためのものである。だから礼が飾りを立てるときも、なまめかしく浮ついたところまでは行かない。粗末な装いを立てるときも、やつれ果てて身を捨てるところまでは行かない。音楽やくつろぎを立てるときも、放埒や怠惰には至らない。泣き声や悲しみを立てるときも、心が締めつけられて命を損なうところまでは至らない。これが礼の中庸である。

解説

礼とは調整のはたらきである、と定義した段です。長すぎれば切り、短すぎれば継ぎ、多すぎるものを減らし、足りないものを補う。その働きによって、愛と敬いがちょうどよく形になると荀子は説きます。興味深いのは、礼が正反対のものを両方とも抱えている点です。華やかな飾りと粗末な装い、音楽と泣き声、くつろぎと悲しみ。どちらか一方だけが正しいのではなく、吉事にはこちら、凶事にはこちらと使い分ける。しかも、どちらの側でも行き過ぎない。飾っても浮つかず、粗末にしても身を損なわず、楽しんでも溺れず、悲しんでも命を削らない。これが礼の中庸です。私たちの働き方も同じで、頑張るか休むかの二択ではなく、場面に応じて強度を切り替え、どちらの側にも振り切らないこと。それが長く続けるための知恵になります。

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