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荀子 / 礼論篇

禮者,謹於治生死者也。生、人之始也,死、人之終也,終始俱善,人道畢矣。故君子敬始而慎終,終始如一,是君子之道,禮義之文也。夫厚其生而薄其死,是敬其有知,而慢其無知也,是姦人之道而倍叛之心也。君子以倍叛之心接臧穀,猶且羞之,而況以事其所隆親乎!故死之為道也,一而不可得再復也,臣之所以致重其君,子之所以致重其親,於是盡矣。故事生不忠厚,不敬文,謂之野;送死不忠厚,不敬文,謂之瘠。君子賤野而羞瘠,故天子棺槨七重,諸侯五重,大夫三重,士再重。然後皆有衣衾多少厚薄之數,皆有翣菨文章之等,以敬飾之,使生死終始若一;一足以為人願,是先王之道,忠臣孝子之極也。天子之喪動四海,屬諸侯;諸侯之喪動通國,屬大夫;大夫之喪動一國,屬脩士;脩士之喪動一鄉,屬朋友;庶人之喪合族黨,動州里;刑餘罪人之喪,不得合族黨,獨屬妻子,棺槨三寸,衣衾三領,不得飾棺,不得晝行,以昏殣,凡緣而往埋之,反無哭泣之節,無衰麻之服,無親疏月數之等,各反其平,各復其始,已葬埋,若無喪者而止,夫是之謂至辱。

新字:礼者,謹於治生死者也。生、人之始也,死、人之終也,終始俱善,人道畢矣。故君子敬始而慎終,終始如一,是君子之道,礼義之文也。夫厚其生而薄其死,是敬其有知,而慢其無知也,是姦人之道而倍叛之心也。君子以倍叛之心接臧穀,猶且羞之,而況以事其所隆親乎!故死之為道也,一而不可得再復也,臣之所以致重其君,子之所以致重其親,於是尽矣。故事生不忠厚,不敬文,謂之野;送死不忠厚,不敬文,謂之瘠。君子賤野而羞瘠,故天子棺槨七重,諸侯五重,大夫三重,士再重。然後皆有衣衾多少厚薄之数,皆有翣菨文章之等,以敬飾之,使生死終始若一;一足以為人願,是先王之道,忠臣孝子之極也。天子之喪動四海,属諸侯;諸侯之喪動通国,属大夫;大夫之喪動一国,属脩士;脩士之喪動一鄉,属朋友;庶人之喪合族党,動州里;刑余罪人之喪,不得合族党,独属妻子,棺槨三寸,衣衾三領,不得飾棺,不得昼行,以昏殣,凡縁而往埋之,反無哭泣之節,無衰麻之服,無親疏月数之等,各反其平,各復其始,已葬埋,若無喪者而止,夫是之謂至辱。

書き下し

礼なる者は、生死を治むるに謹む者なり。生は人の始めなり、死は人の終はりなり。終始倶に善ければ、人道畢る。故に君子は始めを敬して終はりを慎み、終始一の如し。是れ君子の道、礼義の文なり。夫れ其の生を厚くして其の死を薄くするは、是れ其の知有るを敬して、其の知無きを慢るなり。是れ姦人の道にして倍叛の心なり。君子は倍叛の心を以て臧穀に接するすら、猶ほ且つ之を羞づ。而るを況んや以て其の隆親する所に事ふるをや。故に死の道たるや、一にして再び復すべからず。臣の其の君を重んずるを致す所以、子の其の親を重んずるを致す所以、是に於て尽く。故に生に事へて忠厚ならず、敬文ならざる、之を野と謂ふ。死を送りて忠厚ならず、敬文ならざる、之を瘠と謂ふ。君子は野を賤しみて瘠を羞づ。故に天子の棺槨は七重、諸侯は五重、大夫は三重、士は再重なり。然る後に皆な衣衾の多少厚薄の数有り、皆な翣菨文章の等有り。以て之を敬飾し、生死終始をして一の若くならしむ。一は以て人の願ひと為すに足る。是れ先王の道、忠臣孝子の極なり。天子の喪は四海を動かして諸侯を属め、諸侯の喪は通国を動かして大夫を属め、大夫の喪は一国を動かして脩士を属め、脩士の喪は一郷を動かして朋友を属め、庶人の喪は族党を合して州里を動かす。刑余の罪人の喪は、族党を合するを得ず、独り妻子を属むるのみ。棺槨は三寸、衣衾は三領、棺を飾るを得ず、昼行くを得ず、昏を以て殣め、凡て縁りて往きて之を埋む。反りて哭泣の節無く、衰麻の服無く、親疎月数の等無し。各々其の平に反り、各々其の始めに復す。已に葬埋すれば、喪無き者の若くにして止む。夫れ是れを至辱と謂ふ。

現代語訳

礼は、人の生と死をどう扱うかに細心の注意を払うものである。生は人の始まりであり、死は人の終わりである。始めも終わりもともに善ければ、人の道は完成する。だから君子は始まりを敬い、終わりを慎み、始めから終わりまで一貫している。これが君子の道であり、礼義の表れである。生きている間は手厚くして、死んだあとは粗末にするのは、意識のあるうちは敬い、意識のなくなったあとは見くびるということだ。それは邪な人間のやり方であり、裏切りの心である。君子は、裏切りの心で召使いの子どもに接することさえ恥じる。まして、心から敬い親しんできた者に仕えるのに、そんな心でよいはずがない。死は一度きりで、二度とやり直せない。臣下が君主を重んじる気持ちも、子が親を重んじる気持ちも、ここで出し尽くされる。生きている人に仕えて誠実さも敬いの形もないのを野卑といい、死者を送るのに誠実さも敬いの形もないのを痩せた仕打ちという。君子は野卑を賤しみ、痩せた仕打ちを恥じる。だから天子の棺は七重、諸侯は五重、大夫は三重、士は二重と定められ、さらに死装束や布の枚数と厚さにも数があり、飾りの模様にも等級がある。こうして敬いをこめて飾り、生と死、始めと終わりが一貫するようにする。この一貫性こそ、人が願うに足るものであり、先王の道であり、忠臣孝子の極みである。天子の喪は天下を動かして諸侯が集まり、諸侯の喪は国じゅうを動かして大夫が集まり、大夫の喪は一国を動かして修士が集まり、修士の喪は郷里を動かして友人が集まり、庶人の喪は一族が集まって村里が動く。だが刑罰を受けた罪人の喪は、一族が集まることも許されず、妻子だけがこれに連なる。棺の厚さは三寸、死装束は三枚、棺を飾ることも、昼間に運ぶことも許されず、夕暮れに埋葬する。ただ縁を整えて運び、埋めるだけである。帰っても声をあげて泣く作法はなく、喪服もなく、親疎による喪の期間の区別もない。それぞれ普段の暮らしに戻り、もとの生活に復する。埋葬が済めば、喪などなかったかのように終わる。これを最大の辱めという。

解説

終わりをどう扱うかに、その人の誠実さが表れるという段です。生きている間は手厚くし、亡くなった途端に粗末にする。それは相手に意識があるうちだけ敬っていたということで、荀子はこれを裏切りの心だと厳しく退けます。棺の重ね方や布の枚数まで細かく定められているのは、贅沢のためではなく、始めと終わりを一貫させるための形です。逆に、罪人の葬りが飾りも喪服もなく、喪などなかったかのように終わることを、最大の辱めだと述べます。人の尊厳は終わり方の丁寧さに宿る、という発想がここにあります。私たちの日常でも、始めるときは丁寧なのに、終わり方が雑になることがよくあります。退職する人の送り出し、終わった案件の締めくくり、離れていく相手への最後の一言。もう見返りのない相手にどう振る舞うかに、その人の本当の姿が出ます。始めを敬い、終わりを慎む。これは今日からでも実行できる作法です。

この一句を、あなたの毎日に。

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