荀子 / 礼論篇
饗,尚玄尊而用酒醴,先黍稷而飯稻粱。祭,齊大羹而飽庶羞,貴本而親用也。貴本之謂文,親用之謂理,兩者合而成文,以歸大一,夫是之謂大隆。
新字:饗,尚玄尊而用酒醴,先黍稷而飯稲粱。祭,斉大羹而飽庶羞,貴本而親用也。貴本之謂文,親用之謂理,両者合而成文,以帰大一,夫是之謂大隆。
書き下し
饗には、玄尊を尚びて而も酒醴を用い、黍稷を先にして而も稲粱を飯らう。祭には、大羹を斉えて而も庶羞に飽く。本を貴びて用に親しむなり。本を貴ぶ、之を文と謂い、用に親しむ、之を理と謂う。両者合して文を成し、以て大一に帰す。夫れ是れを大隆と謂う。
現代語訳
饗宴では、水の酒器を最上位に据えながら、実際には酒や甘酒を用いる。黍や稷をまず供えながら、実際には米や粟を食べる。祭りでは、味つけのない吸い物を整えて供えながら、実際には数々のご馳走で腹を満たす。これが、根本を貴びつつ実用にも親しむということである。根本を貴ぶことを文と言い、実用に親しむことを理と言う。この二つが合わさって整った形となり、大いなる一つに帰する。これを大隆、すなわち礼の極みと言うのである。
解説
前の段の続きで、儀礼が二重構造になっていることを説明します。形の上では水や素の吸い物を最上位に据えて根本を貴び、実際には酒を飲み、ご馳走を食べて実用に親しむ。荀子は前者を文、後者を理と呼び、この二つが合わさってはじめて礼は完成し、大いなる一つに帰する、それを大隆と呼ぶと言います。原点への敬意だけでも、実用だけでも足りず、両方を同時に成り立たせるところに礼の本領があるという主張です。現実の仕事にも同じ構造があります。理念だけを唱えて成果が出なければ絵空事になり、成果だけを追って理念を忘れれば方向を見失う。掲げる旗と、日々の実務。この二枚を重ねて持つことが、荀子の言う文と理を合わせることであり、私たちの働き方を厚みのあるものにしてくれます。
この章句が説くこと
文と理貴本と親用大隆理念と実務の両立人情祭祀
関連する章句
-
『慎思録』巻之三闕里誌に載す。朱子語録に曰く、宣聖は本当に像を設くべからず。春秋の祭の時、只木主を設けて祭りて可なり、と。丘瓊山曰く、塑像の設は、中国に之無し。仏教の中国に入りしより、始めて有るなり。三代以前神を祀るに、皆主を以てし、所謂像設無きなり。彼の異教之を用ふるは、怪しむに足る無き者なり。知らず吾が聖人を祀る者は、何れの時にして始めて像を為すかを、と云ふ。李元瓘の顔子立ちて侍すと言ふを観れば、則ち像は唐の前に在りて已に有るなり。嗚呼、姚燧言へる有り、北史に敢て泥人銅人を造る者有らば、門誅す、と。則ち泥人は固より中土の主を為りて以て聖人を祀るの法に非ざるなり。後世其の非を覚る莫く、亦其の道に化して之を為す。甚だ神にして之を明らかにし、声無く臭無きの道に非ざるなり。
-
『春秋左氏伝』僖公三十一年 甯武子、相の祀りを拒む三十一年春、濟西の田を取る、曹の地を分かつなり。臧文仲をして往かしむ。重館に宿る。重館の人告げて曰く、「晉新たに諸侯を得たり。必ず其の共(うやうや)しきに親しまん。速やかに行かずんば、將に及ぶ無からんとす」と。之に從ふ。曹の地を分かつこと洮より以南、東のかた濟に傅(つ)く、盡く曹の地なり。襄仲晉に如く、曹の田を拜するなり。夏、四月、四たび郊を卜して從はず。乃ち牲を免(ゆる)す、禮に非ざるなり。猶ほ三望す、亦た禮に非ざるなり。禮には常祀を卜せず、而して其の牲と日とを卜す。牛日を卜するを牲と曰ふ。牲成りて郊を卜す。上怠慢なり。望は、郊の細なり。郊せずんば、亦た望無くして可なり。秋、晉清原に蒐(かり)し、五軍を作りて以って狄を禦ぐ。趙衰卿と為る。冬、狄衛を圍む。衛帝丘に遷る。卜して曰く三百年と。衛の成公康叔の曰ふを夢む、「相予が享を奪ふ」と。公相を祀ることを命ず。甯武子可かずとして曰く、「鬼神は其の族類に非ざれば、其の祀を歆(う)けず。杞・鄫は何事ぞ。相の享けざること、此に於いて久し。衛の罪に非ざるなり。以って成王・周公の命祀を間す可からず。請ふ祀命を改めんことを」と。鄭の洩駕公子瑕を惡む。鄭伯も亦た之を惡む。故に公子瑕出でて楚に奔る。
-
言志四録・言志録 第七十三条 方相氏の儺の深意古者、方相氏の儺を為すや、熊皮を蒙り、黄金の四目、玄衣朱裳、戈を執り盾を揚げ、百隷を帥ゐて之を駆る。郷人群然として出でて観る。蓋し礼を制する者、深意有り。伏陰愆陽、結びて疫気と為る。之を駆除せんと欲せば、人の純陽の気に資るに若くは莫きなり。方相気を作して率先し、百隷之に従ひ、状は怪物の若く然り。闔郷の老少、雑遝して聚まり観、且つ駭き且つ笑ふ。是に於て、陽気四発し、疫気自ら能く消散す。乃ち闔郷の人心に至るまで、亦因りて以て懽然として和暢し、復た邪慝の内に伏鬱すること無し。蓋し其の戯に近き処、是れ其の妙用の在る所か。
-
『慎思録』巻之四始祖の祭は、伊川之を行ふ。朱子曰く、古に此れ無し。伊川義を以て起こす。某当初は也た祭る。後来僭に似たるを覚え、今敢へて祭らず、と。篤信窃かに謂ふ、始祖の祭は、朱子既に之を家礼及び小学に載す。家礼の如きは、朱子四十歳の輯むる所なり。其の間固より晩年の論と合はざる者有り。小学書の如きは、五十八歳の輯むる所なり。拠と為すべきに似たり。然れども当初は也た祭る、後来敢へて祭らずと曰へば、則ち此を以て定説と為すに似たり。丘瓊山曰く、小学に此の条を刪らざるは、必ず其の説有らん、と。是を以て疑はしきを闕きて敢へて決せざるなり。
-
尚書・說命中惟れ厥の居る攸にして、政事惟れ醇なり。祭祀に黷(けが)るる、時れ欽まずと謂ふ。礼煩はしければ則ち乱れ、神に事ふること則ち難し。」王曰く、「旨(うま)いかな。説乃の言惟れ服せん。乃言に良からずんば、予行ひに聞く罔からん。」説拝して稽首して曰く、
-
史記 封禅書後五世、帝武乙、神を慢りて震死す。後三世、帝紂淫乱にして、武王之を伐つ。此に由りて之を観れば、始めは未だ嘗て粛祗せずんばあらず、後稍く怠慢なり。周官に曰く、冬日至に、天を南郊に祀り、長日の至るを迎ふ。夏日至に、地祇を祭る。皆楽舞を用ひて、神乃ち得て礼す可きなり。天子は天下の名山大川を祭り、五岳は三公に視へ、四瀆は諸侯に視ふ。諸侯は其の疆内の名山大川を祭る。四瀆とは、江・河・淮・済なり。天子には明堂・辟雍と曰ひ、諸侯には泮宮と曰ふ。周公既に成王に相として、后稷を郊祀して以て天に配し、文王を明堂に宗祀して以て上帝に配す。禹の興りしより社祀を修め、后稷は稼穡す、故に稷祠有り、郊社の従りて来る所は尚し。周の殷に克ちし後十四世より、世益々衰へ、礼楽廃れ、諸侯恣に行ひ、而して幽王、犬戎の敗る所と為り、周、東して雒邑に徙る。秦の襄公、戎を攻めて周を救ひ、始めて列して諸侯と為る。秦の襄公既に侯となり、西垂に居り、自ら以為へらく少皞の神を主ると、西畤を作り、白帝を祠る。其の牲は騮駒・黄牛・羝羊各一を用ふと云ふ。其の後十六年、秦の文公、東して汧・渭の間に猟し、之に居らんことを卜して吉なり。文公、黄蛇の天より下りて地に属し、其の口の鄜衍に止まるを夢む。文公、史敦に問ふ。敦曰く、「此れ上帝の徴なり、君其れ之を祠れ」と。是に於て鄜畤を作り、三牲を用ひて白帝を郊祭す。未だ鄜畤を作らざるよりして、雍の旁に故より呉陽の武畤有り、雍の東に好畤有り、皆廃れて祠無し。或ひと曰く、「古より雍州は積みて高く、神明の隩なるを以て、故に畤を立てて上帝を郊し、諸神の祠皆聚まると云ふ。蓋し黄帝の時嘗て事を用ひ、晩周と雖も亦郊す」と。其の語は経に見えず、縉紳の者は道はず。鄜畤を作りて後九年、文公、石の若きものを獲て、陳倉の北阪の城に之を祠る。
人生の答えは、ぜんぶ古典に書いてあった。
古典の入門書『人生の教科書』(PDF)と、師導の全機能1か月がセットで700円。二十四の悩みに、論語・老子・孫子から徒然草・五輪書までが答えます。
本の中身を見る