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荀子 / 正論篇

世俗之為說者曰:「堯舜不能教化。」是何也?曰:「朱象不化。」是不然也:堯舜至天下之善教化者也。南面而聽天下,生民之屬莫不振動從服以化順之。然而朱象獨不化,是非堯舜之過,朱象之罪也。堯舜者、天下之英也;朱象者、天下之嵬,一時之瑣也。今世俗之為說者,不怪朱象,而非堯舜,豈不過甚矣哉!夫是之謂嵬說。羿蜂門者、天下之善射者也,不能以撥弓曲矢中微;王梁造父者、天下之善馭者也,不能以辟馬毀輿致遠。堯舜者、天下之善教化者也,不能使嵬瑣化。何世而無嵬?何時而無瑣?自太皞燧人莫不有也。故作者不祥,學者受其殃,非者有慶。《詩》曰:「下民之孽,匪降自天。噂沓背憎,職競由人。」此之謂也。

新字:世俗之為説者曰:「堯舜不能教化。」是何也?曰:「朱象不化。」是不然也:堯舜至天下之善教化者也。南面而聴天下,生民之属莫不振動従服以化順之。然而朱象独不化,是非堯舜之過,朱象之罪也。堯舜者、天下之英也;朱象者、天下之嵬,一時之瑣也。今世俗之為説者,不怪朱象,而非堯舜,豈不過甚矣哉!夫是之謂嵬説。羿蜂門者、天下之善射者也,不能以撥弓曲矢中微;王梁造父者、天下之善馭者也,不能以辟馬毀輿致遠。堯舜者、天下之善教化者也,不能使嵬瑣化。何世而無嵬?何時而無瑣?自太皞燧人莫不有也。故作者不祥,學者受其殃,非者有慶。《詩》曰:「下民之孽,匪降自天。噂沓背憎,職競由人。」此之謂也。

書き下し

世俗の説を為す者曰く、「堯舜は教化する能わず」と。是れ何ぞや。曰く、「朱・象化せず」と。是れ然らざるなり。堯舜は天下の善く教化する者に至れる者なり。南面して天下を聴き、生民の属、振動従服して以て化順せざる莫し。然り而して朱・象独り化せざるは、是れ堯舜の過に非ず、朱・象の罪なり。堯舜なる者は天下の英なり、朱・象なる者は天下の嵬(かい)、一時の瑣(さ)なり。今、世俗の説を為す者、朱・象を怪しまずして堯舜を非とす。豈に過ぎたること甚だしからずや。夫れ是れを之れ嵬説と謂う。羿(げい)・蜂門なる者は天下の善く射る者なり、撥弓・曲矢を以て微に中つる能わず。王梁・造父なる者は天下の善く馭する者なり、辟馬・毀輿を以て遠きを致す能わず。堯舜なる者は天下の善く教化する者なり、嵬瑣をして化せしむる能わず。何れの世にして嵬無からん、何れの時にして瑣無からん。太皞・燧人より、有らざる莫きなり。故に作る者は不祥、学ぶ者は其の殃(わざわい)を受け、非とする者は慶有り。詩に曰く、「下民の孽(わざわい)は、天より降るに匪(あら)ず。噂沓(そんとう)背憎、職として競い人に由る」と。此れの謂いなり。

現代語訳

世間で議論を立てる者はこう言う。「堯や舜でさえ、人を教え導くことはできなかった」と。なぜそう言うのか。「堯の子の丹朱も、舜の弟の象も、ついに改まらなかったではないか」と言うのである。それは違う。堯や舜は、天下で最も人を教え導くことに長けた者である。南に向かって座して天下の政を聴くと、民という民は感じ動いて服従し、教えに従って改まらない者はなかった。それなのに丹朱と象だけが改まらなかったのは、堯舜の落ち度ではなく、丹朱と象の罪である。堯舜は天下の傑出した人物であり、丹朱と象は天下のひねくれ者、一時のつまらぬ人間にすぎない。ところが今、世間の論者は丹朱と象をおかしいと思わず、かえって堯舜のほうを非難する。これほど的外れなことがあろうか。こういうのをこそ、ねじけた説というのである。羿や蜂門は天下で最も弓の上手な者だが、たわんだ弓と曲がった矢では小さな的に当てられない。王梁や造父は天下で最も馬車の御が上手な者だが、いうことをきかない馬と壊れた車では遠くまで行けない。堯舜は天下で最も教化の上手な者だが、ひねくれ者やつまらぬ者を改めさせることはできない。どの時代にひねくれ者がいないだろうか。どの時代につまらぬ者がいないだろうか。太皞や燧人の遠い昔から、いなかったためしはないのだ。だから、こういう説を言い出す者には災いがあり、それを学ぶ者はその禍いを受け、それを非とする者には幸いがある。詩経に「民に降りかかる災いは、天から降ってくるのではない。面と向かってはへつらい、背を向ければ憎み合う、そのすべては人がしていることだ」とある。まさにこのことである。

解説

次の俗説は、聖人の堯舜ですら身内一人を変えられなかった、という話です。堯の子の丹朱、舜の弟の象は素行が改まらなかったと伝えられ、世間の論者はそれを根拠に、教育や教化には力がないのだと結論づけます。荀子はまず事実関係をひっくり返します。堯舜のもとで民は残らず感化されたのであり、丹朱と象だけが改まらなかったのは、教える側ではなく本人たちの罪だ、と。そのうえでたとえを重ねます。弓の名人の羿や蜂門も、たわんだ弓と曲がった矢では的に当てられない。御者の名人の王梁や造父も、いうことをきかない馬と壊れた車では遠くへ行けない。道具や相手にどうしようもない欠けがあれば、名人でも結果は出せないのです。ひねくれ者はどの時代にもいたのだから、その一例で教化そのものを否定するのは筋違いだ、というわけです。変わらない一人を理由に方法そのものを捨てるのは早すぎます。手が届く相手にきちんと届いているかを、まず見たいところです。

この一句を、あなたの毎日に。

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