荀子 / 正論篇
曰:「老者不堪其勞而休也。」是又畏事者之議也。天子者埶至重而形至佚,心至愉而志無所詘,而形不為勞,尊無上矣。衣被則服五采,雜間色,重文繡,加飾之以珠玉;食飲則重大牢而備珍怪,期臭味,曼而饋,伐皋而食,雍而徹乎五祀,執薦者百餘人,侍西房;居則設張容,負依而坐,諸侯趨走乎堂下;出戶而巫覡有事,出門而宗祝有事,乘大路趨越席以養安,側載睪芷以養鼻,前有錯衡以養目,和鸞之聲,步中武象,趨中韶護以養耳,三公奉軶、持納,諸侯持輪、挾輿、先馬,大侯編後,大夫次之,小侯元士次之,庶士介而夾道,庶人隱竄,莫敢視望。居如大神,動如天帝。持老養衰,猶有善於是者與?不老者、休也,休猶有安樂恬愉如是者乎?故曰:諸侯有老,天子無老。
新字:曰:「老者不堪其労而休也。」是又畏事者之議也。天子者埶至重而形至佚,心至愉而志無所詘,而形不為労,尊無上矣。衣被則服五采,雑間色,重文繍,加飾之以珠玉;食飲則重大牢而備珍怪,期臭味,曼而饋,伐皋而食,雍而徹乎五祀,執薦者百余人,侍西房;居則設張容,負依而坐,諸侯趨走乎堂下;出戸而巫覡有事,出門而宗祝有事,乗大路趨越席以養安,側載睪芷以養鼻,前有錯衡以養目,和鸞之声,歩中武象,趨中韶護以養耳,三公奉軶、持納,諸侯持輪、挟輿、先馬,大侯編後,大夫次之,小侯元士次之,庶士介而夾道,庶人隠竄,莫敢視望。居如大神,動如天帝。持老養衰,猶有善於是者与?不老者、休也,休猶有安楽恬愉如是者乎?故曰:諸侯有老,天子無老。
書き下し
曰く、老者は其の労に堪えずして休むなり、と。是れ又た事を畏るる者の議なり。天子なる者は、埶(いきおい)至って重くして形至って佚(やす)く、心至って愉しくして志は詘(くつ)する所無く、而して形は労を為さず、尊きこと上無し。衣被すれば則ち五采を服し、間色を雑え、文繡を重ね、之を飾るに珠玉を以てす。食飲すれば則ち大牢を重ねて珍怪を備え、臭味を期し、曼くして饋(すす)め、皋を伐ちて食し、雍して五祀に徹す。薦を執る者百餘人、西房に侍す。居れば則ち張容を設け、依を負いて坐し、諸侯は堂下に趨走す。戸を出づれば巫覡(ふげき)に事有り、門を出づれば宗祝に事有り。大路に乗り越席を趨(し)きて以て安きを養い、睪芷(たくし)を側載して以て鼻を養い、前に錯衡有りて以て目を養い、和鸞の声、歩は武象に中り、趨は韶護に中りて以て耳を養う。三公は軶(くびき)を奉じて納を持ち、諸侯は輪を持し輿を挟みて馬に先だち、大侯は後に編し、大夫之に次ぎ、小侯・元士之に次ぎ、庶士は介して道を夾み、庶人は隠竄して敢えて視望する莫し。居ること大神の如く、動くこと天帝の如し。老を持し衰を養うに、猶お是れより善き者有らんや。老いざる者の休むや、休むも猶お是くの如き安楽恬愉有らんや。故に曰く、諸侯に老有るも、天子に老無し、と。
現代語訳
世間の者はまた言い返す。老人はその激務に耐えられないから休むのだ、と。これもまた、仕事の重荷を恐れる者の言い分である。天子というものは、権勢はこの上なく重いが、その身はこの上なく安楽で、心はこの上なく愉しく、思いのままにならないことがなく、体を疲れさせることもなく、尊さはこれ以上のものがない。衣服は五色の彩りをまとい、中間色を交え、刺繍を重ね、珠玉で飾る。食事は最上のごちそうを重ね、珍味を取りそろえ、香りと味を吟味し、ゆったりと供され、鼓を打って食事を始め、和やかに五つの祭祀を終える。膳を運ぶ者は百人あまりで、西の部屋に控えている。居間では帳を張りめぐらし、衝立を背にして座り、諸侯は堂の下を小走りに行き来する。部屋を出れば巫(かんなぎ)がつとめを果たし、門を出れば宗廟の祝がつとめを果たす。大路の車に乗り、やわらかな敷物を敷いて身の安らぎを養い、傍らに香草を載せて鼻を養い、前には飾りをつけた横木を置いて目を養い、鈴の音は、歩けば武象の楽に合い、急げば韶護の楽に合って耳を養う。三公は軛(くびき)を捧げて手綱を取り、諸侯は車輪に手を添え車体を支えて馬の先を進み、大諸侯はその後ろに連なり、大夫がこれに次ぎ、小諸侯や元士がこれに次ぎ、士たちは武装して道の両側を固め、庶民は身をひそめて見上げようともしない。居ればまるで大いなる神のようであり、動けばまるで天帝のようである。老いを支え衰えを養うのに、これ以上によいものがあろうか。老いていない者が休むとしても、その休息にこれほどの安らぎと愉しみがあろうか。だから言うのだ、諸侯には引退があるが、天子には引退はない、と。
解説
この章句が説くこと
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『春秋左氏伝』襄公三十一年 美錦を学ばしめず子皮尹何をして邑を為めしめんと欲す。子產曰く、「少し。未だ可否を知らず」と。子皮曰く、「愿なり。吾之を愛す。吾に叛かざるなり。夫をして往きて學ばしめば、夫も亦た愈〻治を知らん」と。子產曰く、「不可なり。人の人を愛するは、之を利せんことを求むるなり。今吾子人を愛するに則ち政を以てす。猶ほ未だ刀を操ること能はずして割かしむるがごときなり。其の傷つくること實に多からん。子の人を愛する、之を傷つくるのみ。其れ誰か敢へて愛を子に求めん。子の鄭國に於けるや、棟なり。棟折れ榱崩るれば、僑將に厭されんとす。敢へて言を盡くさざらんや。子に美錦有らば、人をして製するを學ばしめず。大官大邑は、身の庇ふ所なり。而るに學者をして製せしむ。其の美錦為るや、亦た多からずや。僑聞く、學びて而る後に政に入ると。未だ政を以て學ぶ者を聞かざるなり。若し果たして此を行はば、必ず害する所有らん。譬へば田獵の如し。射御貫るれば、則ち能く禽を獲。若し未だ嘗て車に登りて射御せずんば、則ち敗績厭覆を是れ懼れん。何の暇ありてか獲るを思はん」と。子皮曰く、「善いかな。虎不敏なり。吾聞く、君子は大なる者遠き者を知るに務め、小人は小なる者近き者を知るに務むと。我は小人なり。衣服の吾が身に附在するは、我知りて之を慎む。大官大邑は、身を庇ふ所以なり。我遠ざけて之を慢る。子の言微かりせば、吾知らざりしなり。他日、我曰へり、『子は鄭國を為め、我は吾が家を為めて、以て庇はば其れ可なり』と。今にして後に足らざるを知る。今より請ふ、吾が家と雖も子に聽きて行はん」と。子產曰く、「人心の同じからざるは、其の面の如し。吾豈に敢へて子の面吾が面の如しと謂はんや。抑〻心に危ふしと謂ふ所は、亦た以て告ぐるなり」と。子皮以て忠と為す。故に政を委ぬ。子產是を以て能く鄭國を為む。
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『長短経』知人〔桓範曰く「夫れ帝王の君、歴代相踵ぎ、覇王の賢に任ずるを慕い、亡国の士を失うを悪まざるは莫し。然り而して猶お凶愚に任を授け、破亡相属くは、其の故は何ぞや。人を取るに道に合うを求めずして、己に合うを求むるに由るなり」と。
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