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荀子 / 正論篇

曰:「死而擅之。」是又不然。聖王在上,決德而定次,量能而授官,皆使民載其事而各得其宜。不能以義制利,不能以偽飾性,則兼以為民。聖王已沒,天下無聖,則固莫足以擅天下矣。天下有聖,而在後子者,則天下不離,朝不易位,國不更制,天下厭然,與鄉無以異也;以堯繼堯,夫又何變之有矣!聖不在後子而在三公,則天下如歸,猶復而振之矣。天下厭然,與鄉無以異也;以堯繼堯,夫又何變之有矣!唯其徙朝改制為難。故天子生則天下一隆,致順而治,論德而定次,死則能任天下者必有之矣。夫禮義之分盡矣,擅讓惡用矣哉!

新字:曰:「死而擅之。」是又不然。聖王在上,決徳而定次,量能而授官,皆使民載其事而各得其宜。不能以義制利,不能以偽飾性,則兼以為民。聖王已没,天下無聖,則固莫足以擅天下矣。天下有聖,而在後子者,則天下不離,朝不易位,国不更制,天下厭然,与鄉無以異也;以堯継堯,夫又何変之有矣!聖不在後子而在三公,則天下如歸,猶復而振之矣。天下厭然,与鄉無以異也;以堯継堯,夫又何変之有矣!唯其徙朝改制為難。故天子生則天下一隆,致順而治,論徳而定次,死則能任天下者必有之矣。夫礼義之分尽矣,擅譲悪用矣哉!

書き下し

曰く、死して之を擅る、と。是れ又た然らず。聖王上に在れば、徳を決して次を定め、能を量りて官を授け、皆な民をして其の事を載せて各々其の宜しきを得しむ。義を以て利を制する能わず、偽を以て性を飾る能わざれば、則ち兼ねて以て民と為す。聖王已に没し、天下に聖無ければ、則ち固より以て天下を擅るに足る莫し。天下に聖有りて、後子に在らば、則ち天下離れず、朝位を易えず、国制を更めず、天下厭然として、郷と以て異なる無きなり。堯を以て堯に継ぐ、夫れ又た何の変か之れ有らんや。聖後子に在らずして三公に在らば、則ち天下帰するが如く、猶お復して之を振うがごとし。天下厭然として、郷と以て異なる無きなり。堯を以て堯に継ぐ、夫れ又た何の変か之れ有らんや。唯だ其の朝を徙し制を改むるを難しと為すのみ。故に天子生けば則ち天下一隆、順を致して治まり、徳を論じて次を定め、死すれば則ち能く天下に任ずる者必ず之れ有らん。夫れ礼義の分尽きたり、擅譲悪くんぞ用いんや。

現代語訳

世間の者はこう言い返す。生きている間ではなく、死んでから位を譲るのだ、と。これもまた違う。聖王が上に立てば、徳を見きわめて序列を定め、能力を量って官職を授け、民にはそれぞれの仕事を担わせて、めいめいがふさわしい場所を得られるようにする。義によって利をおさめることができず、後天的な努力によって生まれつきの性を整えることができない者は、まとめて民とする。聖王がすでに世を去り、天下に聖人がいなければ、そもそも天下を譲るに足る相手などいない。天下に聖人がいて、それが先王の子であるなら、天下は離れず、朝廷の地位は入れ替わらず、国の制度も改まらず、天下は落ち着いたままで、以前と何も変わらない。堯のような人が堯のような人を継ぐのだから、いったい何の変化があろうか。聖人が子ではなく三公の中にいるなら、天下はそこへ帰していくようなもので、また立ち返って振るい立つようなものだ。天下は落ち着いたままで、以前と何も変わらない。堯が堯を継ぐのだから、何の変化があろうか。ただ朝廷を移し制度を改めることだけが面倒なだけである。だから天子が生きているうちは天下は一つに高まり、順を尽くして治まり、徳を論じて序列が定まる。そして天子が死ねば、天下を担える者は必ず現れているのだ。礼義による区分はそれで尽くされている。譲り渡すという行為など、どこに使い道があろうか。

解説

生前に譲るのでないなら、死に際して後継者を指名するのだから、やはり譲ったことになるではないか。世間の側はそう反論を重ねてきます。荀子の答えは、制度がきちんと働いていれば譲るという特別な行為は要らない、というものです。聖王が上にいる間、徳を見きわめて序列を定め、能力を量って官職を授け、めいめいにふさわしい仕事を担わせる営みが日々続いている。だから天子が世を去るとき、天下を担える人はすでに現れており、それが子であっても三公の一人であっても、天下は静かに次の段階へ移っていきます。堯のような人が堯のような人を継ぐのだから何も変わらない、という言い方が印象的です。位は贈り物のように手渡されるのではなく、平生の礼義と評価の積み重ねが自然に次の人を用意するのだ、という考え方ですね。事業承継や後任選びも同じでしょう。土壇場の指名劇に頼らず、日ごろから能力を見て仕事を任せておけば、交代は事件ではなく通過点になります。

この一句を、あなたの毎日に。

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