荀子 / 正論篇
世俗之為說者曰:「桀紂有天下,湯武篡而奪之。」是不然。以桀紂為常有天下之籍則然,親有天下之籍則不然,天下謂在桀紂則不然。
新字:世俗之為説者曰:「桀紂有天下,湯武篡而奪之。」是不然。以桀紂為常有天下之籍則然,親有天下之籍則不然,天下謂在桀紂則不然。
書き下し
世俗の説を為す者曰く、桀紂は天下を有ち、湯武は簒して之を奪えり、と。是れ然らず。桀紂を以て常に天下の籍を有つと為さば則ち然り、親ら天下の籍を有つと為さば則ち然らず、天下は桀紂に在りと謂わば則ち然らず。
現代語訳
世間で議論を立てる者はこう言う。桀王や紂王は天下を保有していたのに、湯王や武王がそれを簒奪して奪い取ったのだ、と。そうではない。桀王や紂王が名目上ずっと天下の帳簿の上に載っていた、というのならその通りだ。だが、彼らが実際に自分の身で天下を保有していた、というなら違う。天下が彼らのものであった、というのも違う。
解説
二つめの俗説は、暴君の桀王や紂王も天下の持ち主だったのに、湯王や武王がそれを力ずくで奪った簒奪者ではないか、というものです。位についている者こそ正統であり、それを倒すのは反逆だ、という理屈ですね。荀子の反論は、言葉を切り分けるところから始まります。籍とは帳簿や名簿、つまり公式の記録の上での地位のこと。桀と紂の名が君主の欄に載っていたのは事実だと、荀子はいったん認めます。しかし、名簿に名前があることと、実際に天下を保っていることは別だと言うのです。命令が通らず、民に憎まれ、諸侯に背かれた者は、書類の上では君主でも、実質としてはもう天下を持っていない。だから湯武は持ち主から奪ったのではないことになります。名目と実質を分けて考えるこの手つきは、議論の基本作法でもあります。役職が残っていても信頼が失われていれば、その人はもう本当の意味では率いていない。組織を見る目にそのまま応用できる視点です。
この章句が説くこと
桀紂湯武名と実正統性
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