師導古典を学びたいすべての人に

荀子 / 天論篇

楚王後車千乘,非知也;君子啜菽飲水,非愚也;是節然也。若夫志意脩,德行厚,知慮明,生於今而志乎古,則是其在我者也。故君子敬其在己者,而不慕其在天者;小人錯其在己者,而慕其在天者。君子敬其在己者,而不慕其在天者,是以日進也;小人錯其在己者,而慕其在天者,是以日退也。故君子之所以日進,與小人之所以日退,一也。君子小人之所以相縣者,在此耳。

新字:楚王後車千乗,非知也;君子啜菽飲水,非愚也;是節然也。若夫志意脩,徳行厚,知慮明,生於今而志乎古,則是其在我者也。故君子敬其在己者,而不慕其在天者;小人錯其在己者,而慕其在天者。君子敬其在己者,而不慕其在天者,是以日進也;小人錯其在己者,而慕其在天者,是以日退也。故君子之所以日進,与小人之所以日退,一也。君子小人之所以相県者,在此耳。

書き下し

楚王の後車(こうしゃ)千乘なるは、知(ち)なるに非ざるなり。君子の菽(まめ)を啜(すす)り水を飲むは、愚なるに非ざるなり。是れ節然(せつぜん)たるなり。若(も)し夫れ志意脩まり、德行厚く、知慮明らかにして、今に生まれて古(いにしえ)に志(こころざ)すは、則ち是れ其の我に在る者なり。故に君子は其の己に在る者を敬して、其の天に在る者を慕わず。小人は其の己に在る者を錯(す)てて、其の天に在る者を慕う。君子は其の己に在る者を敬して、其の天に在る者を慕わず、是を以て日に進むなり。小人は其の己に在る者を錯てて、其の天に在る者を慕う、是を以て日に退くなり。故に君子の日に進む所以と、小人の日に退く所以とは、一(いつ)なり。君子小人の相縣(あいへだ)たる所以の者は、此(ここ)に在るのみ。

現代語訳

楚王が千台の車を従えているのは、賢いからではない。君子が豆を食い水を飲んで粗食に甘んじているのは、愚かだからではない。これはたまたまの巡り合わせ(時節)にすぎない。しかし、志が修まり、徳行が厚く、思慮が明らかで、今の世に生まれながら古の道を志す——これは自分自身の内にあるものである。だから君子は、自分の内にあるものを大切にして、天にゆだねられたものを羨まない。小人は、自分の内にあるものを捨てておいて、天にゆだねられたものを羨む。君子は自分の内にあるものを大切にして天にあるものを羨まない、だから日々進歩する。小人は自分の内にあるものを捨てて天にあるものを羨む、だから日々後退する。君子が日々進む理由と、小人が日々退く理由は、まったく同じ一つのことなのだ。君子と小人がこれほど隔たってしまう理由は、ただこの一点にある。

解説

荀子の実践論の核心とも言える段です。楚王の豪奢な車列も、君子の粗食も、それ自体は賢愚の証明ではなく、たまたまの巡り合わせ(節然)にすぎません。境遇は天にゆだねられた領分です。これに対して、志を立て、徳を厚くし、思慮を明らかにすることは、まぎれもなく「己に在る者」——自分の管轄内にあります。君子は己に在るものを大切に磨き、天に在るものを羨まない。小人はその逆で、自分の内側を放り出して外側ばかり羨む。そして荀子は鋭く指摘します。日々進む理由と日々退く理由は「一なり」、つまり同じ一つの分かれ目だ、と。他人の年収や肩書や運の良さを羨んでいる時間は、そのまま自分を磨けたはずの時間です。羨望はコストがゼロに見えて、実は最も高くつきます。自分の手の内にあるものは何か——毎朝それを確認するだけで、進む側に立てます。

この一句を、あなたの毎日に。

古典の教えを、今の状況に当てはめて考えてみる——師導があなたの学びと選択を支えます。

師導で古典を学ぶ