荀子 / 王覇篇
國無禮則不正。禮之所以正國也,譬之:猶衡之於輕重也,猶繩墨之於曲直也,猶規矩之於方圓也,既錯之而人莫之能誣也。《詩》云:「如霜雪之將將,如日月之光明,為之則存,不為則亡。」此之謂也。
新字:国無礼則不正。礼之所以正国也,譬之:猶衡之於軽重也,猶縄墨之於曲直也,猶規矩之於方円也,既錯之而人莫之能誣也。《詩》云:「如霜雪之将将,如日月之光明,為之則存,不為則亡。」此之謂也。
書き下し
国に礼無ければ則ち正しからず。礼の国を正す所以なるは、之を譬うるに、猶お衡の軽重に於けるがごとく、猶お縄墨の曲直に於けるがごとく、猶お規矩の方円に於けるがごときなり。既に之を錯けば、而して人之を誣うること能うもの莫し。詩に云う、「霜雪の将将たるが如く、日月の光明なるが如し、之を為さば則ち存し、之を為さざれば則ち亡ぶ」と。此れを之れ謂うなり。
現代語訳
国に礼がなければ、国は正されない。礼が国を正すはたらきは、たとえば秤が物の軽重をはかるようなもの、墨縄が曲がりとまっすぐを分けるようなもの、コンパスと定規が円と四角を定めるようなものである。いったんこれを据えてしまえば、誰もそれを偽ることはできない。『詩経』に「霜や雪がきびしく降るように、日や月が明るく照らすように。これを行えば存続し、行わなければ滅びる」とある。まさにこのことを言うのである。
解説
礼とは何かを、測定の道具にたとえた印象的な段です。秤、墨縄、コンパスと定規。どれも、人の思い込みや力関係とは無関係に、軽重・曲直・方円を客観的に決めてしまう道具です。荀子は礼をこれと同じだと言います。いったん基準が据えられれば、誰も「自分に都合よく」ごまかすことができない。ここに礼のありがたさがある、というわけです。裏返せば、基準のない組織では、声の大きい人や立場の強い人の言い分が通り、正しさは力で決まってしまいます。私たちの仕事でも、評価基準や判断のルールがあいまいなまま議論を始めると、結論は結局その場の空気で決まります。先に物差しを共有しておけば、意見が割れても、何を見て決めるかで合意できる。ルールは人を縛るためではなく、ごまかしを不可能にして議論を成立させるためにある。そう考えると、礼の役割がぐっと身近になります。
この章句が説くこと
礼は国の物差し客観的な基準規矩準縄ごまかせない仕組み礼人情
関連する章句
-
『五常訓』巻之四・礼一朱子曰、礼は即理の節文なり。いふ意は、万の行、道理にかなひて、過不及なく、程よきを云ふ。飲食の一事をいはば、うゑかわく時に飲み食ふは理なり。されども、飲み食ふべき理なりとて、みだりに多く飲み食へば、放逸にして、みだりがはしく、又必病を生ず。飲み食ふべき理にあたりて、過不及なく、よき程なるが、理の節文なり。万の事、是を以て知るべし。
-
『五常訓』巻之四・礼本立てば末は是より出づる理なり。末のみ修りて、本なきは、誠なくして、礼の道たたず。喪の礼は、ことさら真実ならでは行はれざるものなれば、既に礼の本を説きて、又其内より、喪の礼の本をかかげ出して説き給ふ。
-
『五常訓』巻之四・礼一礼記に、子曰、敬ひて礼にあたらざる、これを野と云ふ。敬ふは誠によけれど、礼にかなはざれば、これ野きなり。敬によき程の法あり。過不及ありて、其法にかなはざるは、是礼にあたらざるなり。況やおごりて理にかなはざるは、ことに礼にそむけり。野きより、其害甚し。
-
『五常訓』巻之四・礼一威儀をつつしみ、衣冠を正しくし、視ること、聴くこと、言ふこと、動くことの四事につきて、各過不及なく、よき程の法あり。又親につかへ、君につかふるに、各さだまれる法あり。兄弟、夫婦に対し、賓客にまじはり、臣下に対し、民をつかひ、先祖鬼神をまつるも法あり。是礼は、皆天理のよき程なる節文にして、人事の定まれる作法なり。仁義皆理なりといへども、とりわき礼を理といへるに子細あり。理とは行ふべきすぢめなり。万事を行ふに、皆定まりたる作法あり。是人の行ふべきすぢめなり。是即礼なり。ここを以て聖人の説き給へる礼の字は、理の字にあたれり。然れども理といはずして礼といへるに、子細あり。理といへば形と事にあらはれたる迹なくして、虚なり。
-
『弁名』禮礼は道の名なり。先王の制作する所の四教・六芸、是れ其の一に居る。所謂経礼三百、威儀三千、是れ其の物なり。六芸は、書・数は庶人の官に在る者、府・史・胥・徒の専ら務むる所と為す。御も亦た士の職とする所なり。射は諸侯に通ずと雖も、其の所謂射は、礼楽を以て之を行ふ、民の射の皮を主とする者の比に非ず。唯だ礼楽のみ乃ち芸の大なる者にして、君子の務むる所なり。而して楽は伶官に掌られ、君子以て徳を養ふのみ。礼に至りては則ち君子此を以て顕業と為す。是を以て孔子少くして礼を知るを以て称せられ、周に之きて礼を老聃に問ひ、杞に之き宋に之き、唯だ礼を之れ求む。子夏の記す所、曾子の問ふ所、七十子皆礼に断断たり。檀弓の諸篇に見ゆ。三代の君子の礼を務むる、以て見るべきのみ。
-
『弁名』禮是の礼楽の教は、黙して之を識るに在りと雖も、然れども人の知、至る有り、至らざる有り。故に孔子時有りてか、一隅を挙げて以て其の義を語る。義とは先王の礼を制する所以の義、戴記に載する所皆是れのみ。祇だ人の知、至る有り、至らざる有り。故に七十子の先王を信ずる、孔子の先王を信ずるに及ばず。其の人の七十子を信ずるも、亦た七十子の孔子を信ずるに及ばず。故に其の人に喩さんと欲するの急なる、其の義を論説して已まず。日に以て蔓衍し、以て戦国の時に至りて、義遂に礼を離れて孤行し、復た礼に就きて其の義を言はず。孟子の書を観て見るべきのみ。此れより其の後、古を去ること益〻遠く、義理の説益〻盛んに、囂然として以て天下を乱し、先王・孔子の教、蕩乎として尽く。悲しいかな。
人生の答えは、ぜんぶ古典に書いてあった。
古典の入門書『人生の教科書』(PDF)と、師導の全機能1か月がセットで700円。二十四の悩みに、論語・老子・孫子から徒然草・五輪書までが答えます。
本の中身を見る