荀子 / 王制篇
聖王之用也:上察於天,下錯於地,塞備天地之間,加施萬物之上,微而明,短而長,狹而廣,神明博大以至約。故曰:一與一是為人者,謂之聖人也。
新字:聖王之用也:上察於天,下錯於地,塞備天地之間,加施万物之上,微而明,短而長,狭而広,神明博大以至約。故曰:一与一是為人者,謂之聖人也。
書き下し
聖王の用なり。上は天に察かに、下は地に錯き、天地の間に塞備し、万物の上に加施す。微にして明らかに、短くして長く、狭くして広く、神明博大にして以て至約なり。故に曰く、一にして一なる、是れ人と為る者、之を聖人と謂うなり。
現代語訳
聖王のはたらきはこうである。上は天のことに明察であり、下は地のことに配置を誤らず、天と地の間をすみずみまで満たし備え、あらゆるものの上にそのはたらきを及ぼす。細やかでありながら明らかであり、短いようでいて長く、狭いようでいて広い。神のように明らかで広大でありながら、しかも究極に簡潔である。だから言う。一つの道理をどこまでも一つのものとして貫き通す。それでこそ人が真に人となるのであり、そういう人を聖人と呼ぶのである。
解説
聖王のはたらきを、対になる言葉を重ねて描いた段です。細やかなのに明らか、短いようで長く、狭いようで広い。そして神のように広大でありながら、究極に簡潔である。この「博大にして至約」という組み合わせが要点です。あらゆる場面に届くほど広い適用範囲を持ちながら、原理そのものはきわめて簡潔である。細かい規則を無数に積み上げるのではなく、一つの筋を貫き通すからこそ、どこまでも届く。荀子はこれを「一にして一なる」と表現し、そこに聖人の条件を見ます。難しく複雑なものは、実は弱い。ほんとうに強い原則は、短い言葉で言えて、しかもどんな場面にも応用が利きます。私たちの仕事でも、方針が長大な文書でしか説明できないなら、それはまだ煮詰まっていない証拠かもしれません。一言で言える筋を持ち、それを貫くこと。簡潔さは、思考の深さの結果です。
この章句が説くこと
聖王のはたらき博大にして至約一を貫く簡潔さの力
関連する章句
-
荀子・儒効篇井井兮として其れ理有るなり、厳厳兮として其れ能く己を敬むなり、分分兮として其れ終始有るなり、猒猒兮として其れ能く長久なるなり、楽楽兮として其れ道を執りて殆からざるなり、炤炤兮として其れ知を用うるの明なるなり、脩脩兮として其れ統類を用うるの行なるなり、綏綏兮として其れ文章有るなり、熙熙兮として其れ人の臧きを楽しむなり、隠隠兮として其れ人の当たらざるを恐るるなり。是くの如くんば、則ち聖人と謂うべし。此れ其の道は一より出づ。何をか一と謂う。曰く、神を執りて固し。何をか神と謂う。曰く、善を尽くし治を挾む、之を神と謂う。万物も以て之を傾くるに足るもの莫し、之を固と謂う。神固、之を聖人と謂う。
-
荀子・仲尼篇彼の王者は則ち然らず。賢を致して能く以て不肖を救い、彊を致して能く以て弱を寛くし、戦えば必ず能く之を殆うくするも、之と鬥うを羞ず。委然として文を成し、以て之を天下に示せば、暴国も安んじて自ら化す。災繆なる者有らば、然る後に之を誅す。故に聖王の誅や綦めて省なり。文王は四を誅し、武王は二を誅す。周公業を卒え、成王に至れば、則ち安んじて誅する無し。故に道豈に行なわれざらんや。文王は百里の地に載りて、天下一なり。桀・紂は之を舎て、天下を有つの埶に厚きも、匹夫として老ゆるを得ず。故に善く之を用うれば、則ち百里の国も以て独立するに足る。善く之を用いざれば、則ち楚は六千里なるも讎人の役と為る。故に人主、道を得るを務めずして、広く其の埶を有つは、是れ其の危うき所以なり。
-
荀子・王制篇王者の人は、動を飾るに礼義を以てし、聴断するに類を以てし、明らかなること毫末を振るい、挙措は変に応じて窮せず。夫れ是れを之れ原有りと謂う。是れ王者の人なり。
-
荀子・正論篇故に天子は唯だ其の人のみ。天下なる者は、至重なり、至彊に非ざれば之を能く任ずる莫し。至大なり、至辨に非ざれば之を能く分かつ莫し。至衆なり、至明に非ざれば之を能く和する莫し。此の三至なる者は、聖人に非ざれば之を能く尽くす莫し。故に聖人に非ざれば之を能く王たる莫し。聖人は道を備え美を全うする者なり、是れ天下を県くるの権称なり。桀紂なる者は、其の志慮至険なり、其の志意至闇なり、其の行為至乱なり。親しき者之を疏んじ、賢なる者之を賤しみ、生民之を怨む。禹湯の後なり、而も一人の与するを得ず。比干を刳き、箕子を囚え、身死し国亡び、天下の大僇と為り、後世の悪を言う者は必ず焉に稽う。是れ妻子をも容れざるの数なり。故に至賢は四海に疇たり、湯武是れなり。至罷は妻子を容るる能わず、桀紂是れなり。今、世俗の説を為す者、桀紂を以て天下を有つと為して、湯武を臣とす。豈に過ぎたること甚だしからずや。之を譬うれば、是れ猶お傴巫跛匡の大いに自ら以て知有りと為すがごときなり。
-
荀子・君子篇法を聖王に論(と)れば、則ち貴ぶ所を知り、義を以て事を制すれば、則ち利する所を知る。論(ろん)に貴ぶ所を知れば、則ち養う所を知り、事に利する所を知れば、則ち動きて出づる所を知る。二者は是非の本、得失の原なり。故に成王の周公に於けるや、往く所として聽かざる無きは、貴ぶ所を知ればなり。桓公の管仲に於けるや、國事往く所として用いざる無きは、利する所を知ればなり。吳に伍子胥(ごししょ)有れども用うる能わず、國亡ぶに至るは、道に倍(そむ)き賢を失えばなり。故に聖を尊ぶ者は王たり、賢を貴ぶ者は霸たり、賢を敬する者は存し、賢を慢(あなど)る者は亡ぶ。古今一なり。故に賢を尚(たっと)び、能を使い、貴賤を等しくし、親疏を分かち、長幼を序するは、此れ先王の道なり。故に賢を尚び能を使えば、則ち主尊く下安し。貴賤に等有れば、則ち令行われて流れず。親疏に分有れば、則ち施行われて悖(もと)らず。長幼に序有れば、則ち事業捷(すみ)やかに成りて休(いこ)う所有り。故に仁とは此れを仁(いつく)しむ者なり。義とは此れを分かつ者なり。節とは此れに死生する者なり。忠とは此れを惇慎(とんしん)する者なり。此れを兼ねて之を能くすれば備われり。備わりて矜(ほこ)らず、一(もっぱ)ら自ら善くする、之を聖と謂う。矜らず、夫れ故に天下之と能を爭わずして、善く其の功を用うるを致す。有りて有(ゆう)とせず、夫れ故に天下の貴(とうと)ぶ所と為るなり。詩に曰く、「淑人(しゅくじん)君子、其の儀忒(たが)わず。其の儀忒わず、是の四國を正す」と。此れ之れの謂いなり。
-
荀子・不苟篇君子は位尊くして志は恭しく、心は小にして道は大なり。聴視する所の者は近くして、聞見する所の者は遠し。是れ何ぞや。則ち術を操ること然らしむるなり。故に千人万人の情も、一人の情なり。天地の始めは、今日是れなり。百王の道は、後王是れなり。君子は後王の道を審らかにして、百王の前を論ずること、端拝して議するが若し。礼義の統を推し、是非の分を分かち、天下の要を総べ、海内の衆を治むること、一人を使うが若し。故に操ること弥いよ約にして、事は弥いよ大なり。五寸の矩は、天下の方を尽くすなり。故に君子は室堂を下らずして、海内の情挙って此に積む者は、則ち術を操ること然らしむるなり。
人生の答えは、ぜんぶ古典に書いてあった。
古典の入門書『人生の教科書』(PDF)と、師導の全機能1か月がセットで700円。二十四の悩みに、論語・老子・孫子から徒然草・五輪書までが答えます。
本の中身を見る