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荀子 / 儒効篇

人論:志不免於曲私,而冀人之以己為公也;行不免於汙漫,而冀人之以己為脩也;甚愚陋溝瞀,而冀人之以己為知也:是眾人也。志忍私,然後能公;行忍情性,然後能脩;知而好問,然後能才;公脩而才,可謂小儒矣。志安公,行安脩,知通統類:如是則可謂大儒矣。大儒者,天子三公也;小儒者,諸侯、大夫、士也;眾人者,工農商賈也。禮者、人主之所以為群臣寸尺尋丈檢式也。人倫盡矣。

新字:人論:志不免於曲私,而冀人之以己為公也;行不免於汙漫,而冀人之以己為脩也;甚愚陋溝瞀,而冀人之以己為知也:是眾人也。志忍私,然後能公;行忍情性,然後能脩;知而好問,然後能才;公脩而才,可謂小儒矣。志安公,行安脩,知通統類:如是則可謂大儒矣。大儒者,天子三公也;小儒者,諸侯、大夫、士也;眾人者,工農商賈也。礼者、人主之所以為群臣寸尺尋丈検式也。人倫尽矣。

書き下し

人論。志は曲私を免れざるに、而も人の己を以て公と為さんことを冀う。行いは汙漫を免れざるに、而も人の己を以て脩まれりと為さんことを冀う。甚だ愚陋溝瞀なるに、而も人の己を以て知と為さんことを冀う。是れ衆人なり。志は私を忍びて、然る後に能く公なり。行いは情性を忍びて、然る後に能く脩まる。知りて問うを好み、然る後に能く才あり。公にして脩まり而して才あれば、小儒と謂うべし。志は公に安んじ、行いは脩まるに安んじ、知は統類に通ず。是くの如くんば則ち大儒と謂うべし。大儒なる者は、天子の三公なり。小儒なる者は、諸侯・大夫・士なり。衆人なる者は、工・農・商賈なり。礼なる者は、人主の群臣を寸尺尋丈する所以の検式なり。人倫尽くせり。

現代語訳

人の品定めについて。心が偏りと私心を免れていないのに、人が自分を公正だと思ってくれることを望む。行いが汚れとしまりのなさを免れていないのに、人が自分を修まっていると思ってくれることを望む。ひどく愚かで見識が狭く暗いのに、人が自分を賢いと思ってくれることを望む。これが世間並みの人である。心が私心を抑え込んで、そのうえではじめて公正でありうる。行いが感情や欲望を抑え込んで、そのうえではじめて修まる。知っていてなお問うことを好み、そのうえではじめて才となる。公正で、修まっていて、才がある。これを小儒と呼んでよい。心が公正であることに落ち着き、行いが修まっていることに落ち着き、知が根本の筋道にまで通じている。このようであれば大儒と呼んでよい。大儒とは、天子を支える三公にあたる者である。小儒とは、諸侯・大夫・士にあたる者である。世間並みの人とは、職人・農民・商人にあたる者である。礼とは、君主が臣下たちの寸法をはかるための物差しであり基準である。人の序列は、これで尽くされている。

解説

荀子は「人論」、つまり人の品定めの基準を示します。世間並みの人の特徴は痛烈です。心には私心があるのに公正だと思われたがり、行いは乱れているのに修まっていると思われたがり、見識は乏しいのに賢いと思われたがる。実質を伴わないまま評価だけを欲しがる姿です。ではどうすれば上がれるか。私心を抑えてはじめて公正になり、感情を抑えてはじめて行いが修まり、知っていてなお人に問うことを好んではじめて才となる。この三つがそろえば小儒です。さらにそれが努力なく自然に落ち着き、根本の筋道まで通じれば大儒だ、と言います。注目したいのは「知りて問うを好む」の一句です。知っている人ほど問わなくなるものですが、荀子はそこにこそ才の分かれ目を見ています。分かったつもりの場所でもう一度問えるか。それが実質を育てる最短の道です。

この一句を、あなたの毎日に。

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