荀子 / 儒効篇
故人主用俗人,則萬乘之國亡;用俗儒,則萬乘之國存;用雅儒,則千乘之國安;用大儒,則百里之地,久而後三年,天下為一,諸侯為臣;用萬乘之國,則舉錯而定,一朝而伯。
新字:故人主用俗人,則万乗之国亡;用俗儒,則万乗之国存;用雅儒,則千乗之国安;用大儒,則百里之地,久而後三年,天下為一,諸侯為臣;用万乗之国,則舉錯而定,一朝而伯。
書き下し
故に人主俗人を用うれば、則ち万乗の国も亡ぶ。俗儒を用うれば、則ち万乗の国も存す。雅儒を用うれば、則ち千乗の国も安し。大儒を用うれば、則ち百里の地も、久しくして後三年、天下を一と為し、諸侯を臣と為す。万乗の国を用うれば、則ち挙錯して定まり、一朝にして伯たり。
現代語訳
だから君主が俗人を用いれば、一万乗の兵車を出せる大国でさえ滅びる。俗儒を用いれば、一万乗の大国はかろうじて存続する。雅儒を用いれば、千乗の国は安泰となる。大儒を用いれば、わずか百里四方の土地からでも、長くても三年のうちに天下を一つにまとめ、諸侯を臣従させる。もし大儒に一万乗の大国を任せれば、施策を打つそばから定まり、たちまち覇者となる。
解説
前段で示した四つの型を、こんどは国家の結果に結びつけます。俗人を用いれば大国でも滅び、俗儒なら大国がかろうじて存続し、雅儒なら中規模の国が安泰になり、大儒なら小さな領地からでも天下を統一できる。誰を用いるかによって、同じ国力がまったく違う結末に至るという主張です。ここには荀子の人材観がはっきり出ています。国の運命を決めるのは、領土の広さでも兵の数でもなく、上に立つ者が誰を選ぶかだ、というわけです。逆に言えば、大国であることは安全の保証にならない。俗人を登用した瞬間に、その規模はむしろ崩れ落ちる高さになります。組織でも同じことが起こります。人を選ぶ判断は、日々の業務のなかで最も地味に見えて、最も長く効く決定です。誰を採るか、誰に任せるか。そこに一番の時間をかける価値があります。
この章句が説くこと
人材登用俗人を用いれば亡ぶ大儒を用いる人選が組織を決める人材
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人物志・效難蓋し人を知るの効に二難有り。知り難きの難有り、之を知るも効を得るに由無きの難有り。
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