荀子 / 儒効篇
造父者,天下之善御者也,無輿馬則無所見其能。羿者,天下之善射者也,無弓矢則無所見其巧。大儒者,善調一天下者也,無百里之地,則無所見其功。輿固馬選矣,而不能以至遠,一日而千里,則非造父也。弓調矢直矣,而不能以射遠中微,則非羿也。用百里之地,而不能以調一天下,制彊暴,則非大儒也。
書き下し
造父なる者は、天下の善く御する者なり、輿馬無ければ則ち其の能を見わす所無し。羿なる者は、天下の善く射る者なり、弓矢無ければ則ち其の巧を見わす所無し。大儒なる者は、善く天下を調え一にする者なり、百里の地無ければ、則ち其の功を見わす所無し。輿固く馬選ばれたるも、而も以て遠きに至り、一日にして千里なる能わざれば、則ち造父に非ざるなり。弓調い矢直きも、而も以て遠きを射て微を中つる能わざれば、則ち羿に非ざるなり。百里の地を用いて、而も以て天下を調え一にし、彊暴を制する能わざれば、則ち大儒に非ざるなり。
現代語訳
造父は天下一の御者であるが、車と馬がなければその腕を発揮する場がない。羿は天下一の弓の名手であるが、弓と矢がなければその技を発揮する場がない。大儒は天下をよく調え一つにまとめる者であるが、百里四方の土地がなければ、その功績を示す場がない。反対に、車が丈夫で馬もよりすぐりであるのに、遠くまで行けず、一日に千里を走れないなら、それは造父ではない。弓が整い矢もまっすぐであるのに、遠くを射て小さな的に当てられないなら、それは羿ではない。百里の土地を与えられていながら、天下を調え一つにまとめ、強暴な者を抑えることができないなら、それは大儒ではない。
解説
能力と場は、両方そろってはじめて意味を持つ。そういう一段です。名御者の造父も車と馬がなければ腕を見せられず、名射手の羿も弓矢がなければ技を見せられない。大儒もまた、たとえ百里四方でよいから治める土地がなければ、その働きを示す場がありません。ここまでなら、機会に恵まれない人への慰めのようにも聞こえます。ところが荀子は、同じ論理をすぐにひっくり返します。良い車と良い馬を与えられて千里を走れないなら、それは造父ではない。整った弓矢を持って的に当てられないなら、それは羿ではない。土地を任されて治められないなら、それは大儒ではない、と。つまり、場がなければ力は示せないが、場を与えられて示せなければ、その力は初めからなかったということです。機会を求めることと、与えられた機会で結果を出すこと。この二つはいつも一組で問われます。
この章句が説くこと
造父と羿能力と機会百里の地任された場で示す人材登用功名
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『智囊』經務・汪立信・文天祥北人南侵し、文天祥疏を上りて言う、「朝廷は姑息牽制の意多く、奮発剛断の意少なし。乞う、師孟を斬りて鼓に釁り、以て将士の気を作せ」と。且つ言う、「宋は五季の乱に懲り、藩鎮を削り、邑郡を建て、一時は以て尾大の弊を矯むるに足ると雖も、然れども国は変を以て弱まり、故に敵一州に至れば則ち一州破れ、一県に至れば則ち一県残われ、中原陸沈す。痛悔何ぞ及ばん。今宜しく天下を分かちて四鎮と為し、都督を建てて其の中に統御せしむべし。広西を以て湖広に益し、閫を長沙に建つ。広東を以て江西に益し、閫を隆興に建つ。福建を以て江東に益し、閫を番陽に建つ。淮西を以て淮東に益し、閫を揚州に建つ。長沙には鄂を取らしめ、隆興には蘄・黄を取らしめ、番陽には江東を取らしめ、揚州には両淮を取らしむ。其の地をして大きく力をして衆からしめ、以て敵に抗するに足らしめ、日を約して斉しく奮い、進む有りて退く無く、日夜之を図らしめば、彼は備え多く力分かれ、奔命に疲れん。而して吾が民の豪傑なる者、又た間を伺いて其の中より出でん。此の如くんば、則ち敵を却くること難からず」と。〔馮評〕靖康に李綱有るも用いず、而して黄潜善・江伯彦を用う。咸淳に汪立信有るも用いず、而して賈似道を用う。徳祐に文天祥有るも用いず、而して陳宜中を用う。然れば則ち宋は金に衰えず、自ら衰うるなり。元に亡びず、自ら亡ぶるなり。
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『春秋左氏伝』襄公三十一年 美錦を学ばしめず子皮尹何をして邑を為めしめんと欲す。子產曰く、「少し。未だ可否を知らず」と。子皮曰く、「愿なり。吾之を愛す。吾に叛かざるなり。夫をして往きて學ばしめば、夫も亦た愈〻治を知らん」と。子產曰く、「不可なり。人の人を愛するは、之を利せんことを求むるなり。今吾子人を愛するに則ち政を以てす。猶ほ未だ刀を操ること能はずして割かしむるがごときなり。其の傷つくること實に多からん。子の人を愛する、之を傷つくるのみ。其れ誰か敢へて愛を子に求めん。子の鄭國に於けるや、棟なり。棟折れ榱崩るれば、僑將に厭されんとす。敢へて言を盡くさざらんや。子に美錦有らば、人をして製するを學ばしめず。大官大邑は、身の庇ふ所なり。而るに學者をして製せしむ。其の美錦為るや、亦た多からずや。僑聞く、學びて而る後に政に入ると。未だ政を以て學ぶ者を聞かざるなり。若し果たして此を行はば、必ず害する所有らん。譬へば田獵の如し。射御貫るれば、則ち能く禽を獲。若し未だ嘗て車に登りて射御せずんば、則ち敗績厭覆を是れ懼れん。何の暇ありてか獲るを思はん」と。子皮曰く、「善いかな。虎不敏なり。吾聞く、君子は大なる者遠き者を知るに務め、小人は小なる者近き者を知るに務むと。我は小人なり。衣服の吾が身に附在するは、我知りて之を慎む。大官大邑は、身を庇ふ所以なり。我遠ざけて之を慢る。子の言微かりせば、吾知らざりしなり。他日、我曰へり、『子は鄭國を為め、我は吾が家を為めて、以て庇はば其れ可なり』と。今にして後に足らざるを知る。今より請ふ、吾が家と雖も子に聽きて行はん」と。子產曰く、「人心の同じからざるは、其の面の如し。吾豈に敢へて子の面吾が面の如しと謂はんや。抑〻心に危ふしと謂ふ所は、亦た以て告ぐるなり」と。子皮以て忠と為す。故に政を委ぬ。子產是を以て能く鄭國を為む。
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『春秋左氏伝』文公三年 秦、西戎に覇たり春、莊叔諸侯の師に會して沈を伐つ、其の楚に服するを以ってなり。沈潰ゆ。凡そ民、其の上を逃るるを潰と曰ひ、上に在るを逃と曰ふ。衛侯陳に如く、晉の成を拜するなり。夏四月、乙亥、王叔文公卒す。來りて赴ぐ。弔すること同盟の如くす、禮なり。秦伯晉を伐つ。河を濟りて舟を焚き、王官及び郊を取る。晉人出でず。遂に茅津より濟り、殽の尸を封じて還る。遂に西戎に霸たり、孟明を用ゐればなり。君子是を以って知る、秦の穆公の君為るや、人を舉ぐることの周きなり、人に與することの壹なるなり。孟明の臣為るや、其の解(おこた)らざるなり、能く懼れて思ふなり。子桑の忠なるや、其の人を知るなり、能く善を舉ぐるなり。《詩》に曰く、「于(ここ)に以って蘩を采る、沼に于てし沚に于てす。于に以って之を用ゐる、公侯の事なり」と。秦の穆之れ有り。「夙夜解らず、以って一人に事ふ」と。孟明之れ有り。「厥の孫謀を詒(のこ)し、以って子を燕翼す」と。子桑之れ有り。秋、宋に螽雨る、隊ちて死するなり。楚の師江を圍む。晉の先僕楚を伐ちて以って江を救ふ。冬、晉江の故を以って周に告ぐ。王叔桓公・晉の陽處父、楚を伐ちて、以って江を救ふ。方城に門し、息の公子朱に遇ひて還る。
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