荀子 / 儒効篇
聖人也者,道之管也:天下之道管是矣,百王之道一是矣。故詩書禮樂之道歸是矣。詩言是其志也,書言是其事也,禮言是其行也,樂言是其和也,春秋言是其微也,故風之所以為不逐者,取是以節之也,小雅之所以為小者,取是而文之也,大雅之所以為大者,取是而光之也,頌之所以為至者,取是而通之也。天下之道畢是矣。鄉是者臧,倍是者亡;鄉是如不臧,倍是如不亡者,自古及今,未嘗有也。
新字:聖人也者,道之管也:天下之道管是矣,百王之道一是矣。故詩書礼楽之道帰是矣。詩言是其志也,書言是其事也,礼言是其行也,楽言是其和也,春秋言是其微也,故風之所以為不逐者,取是以節之也,小雅之所以為小者,取是而文之也,大雅之所以為大者,取是而光之也,頌之所以為至者,取是而通之也。天下之道畢是矣。郷是者臧,倍是者亡;郷是如不臧,倍是如不亡者,自古及今,未嘗有也。
書き下し
聖人なる者は、道の管なり。天下の道は是に管ぶり、百王の道は是に一なり。故に詩・書・礼・楽の道は是に帰す。詩は是を言いて其の志なり、書は是を言いて其の事なり、礼は是を言いて其の行いなり、楽は是を言いて其の和なり、春秋は是を言いて其の微なり。故に風の逐われざるを為す所以の者は、是を取りて以て之を節すればなり。小雅の小と為る所以の者は、是を取りて之を文すればなり。大雅の大と為る所以の者は、是を取りて之を光かせばなり。頌の至れりと為る所以の者は、是を取りて之に通ずればなり。天下の道は是に畢わる。是に郷かう者は臧く、是に倍く者は亡ぶ。是に郷かいて臧からず、是に倍きて亡びざる者、古より今に及ぶまで、未だ嘗て有らざるなり。
現代語訳
聖人とは、道の要となる管である。天下の道はここに束ねられ、歴代の王の道はここで一つになる。だから詩・書・礼・楽の道は、みなここに帰着する。詩はこの道を語ってその志を表し、書はこの道を語ってその政事を記し、礼はこの道を語ってその行いを定め、楽はこの道を語ってその調和を示し、春秋はこの道を語ってその微妙な意味を伝える。だから、詩経の国風がだらしなく流れ去らずにすんでいるのは、この道を取って節度をつけているからであり、小雅が小雅たりえているのは、この道を取ってあやをつけているからであり、大雅が大雅たりえているのは、この道を取って輝かせているからであり、頌が至高のものとされるのは、この道を取ってそれに通じているからである。天下の道はここに尽きている。この道に向かう者は栄え、この道に背く者は滅びる。この道に向かいながら栄えなかった者、この道に背きながら滅びなかった者は、いにしえから今にいたるまで、いまだかつて存在しない。
解説
この章句が説くこと
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荀子・君子篇法を聖王に論(と)れば、則ち貴ぶ所を知り、義を以て事を制すれば、則ち利する所を知る。論(ろん)に貴ぶ所を知れば、則ち養う所を知り、事に利する所を知れば、則ち動きて出づる所を知る。二者は是非の本、得失の原なり。故に成王の周公に於けるや、往く所として聽かざる無きは、貴ぶ所を知ればなり。桓公の管仲に於けるや、國事往く所として用いざる無きは、利する所を知ればなり。吳に伍子胥(ごししょ)有れども用うる能わず、國亡ぶに至るは、道に倍(そむ)き賢を失えばなり。故に聖を尊ぶ者は王たり、賢を貴ぶ者は霸たり、賢を敬する者は存し、賢を慢(あなど)る者は亡ぶ。古今一なり。故に賢を尚(たっと)び、能を使い、貴賤を等しくし、親疏を分かち、長幼を序するは、此れ先王の道なり。故に賢を尚び能を使えば、則ち主尊く下安し。貴賤に等有れば、則ち令行われて流れず。親疏に分有れば、則ち施行われて悖(もと)らず。長幼に序有れば、則ち事業捷(すみ)やかに成りて休(いこ)う所有り。故に仁とは此れを仁(いつく)しむ者なり。義とは此れを分かつ者なり。節とは此れに死生する者なり。忠とは此れを惇慎(とんしん)する者なり。此れを兼ねて之を能くすれば備われり。備わりて矜(ほこ)らず、一(もっぱ)ら自ら善くする、之を聖と謂う。矜らず、夫れ故に天下之と能を爭わずして、善く其の功を用うるを致す。有りて有(ゆう)とせず、夫れ故に天下の貴(とうと)ぶ所と為るなり。詩に曰く、「淑人(しゅくじん)君子、其の儀忒(たが)わず。其の儀忒わず、是の四國を正す」と。此れ之れの謂いなり。
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