荀子 / 非十二子篇
古之所謂處士者,德盛者也,能靜者也,脩正者也,知命者也,箸是者也。今之所謂處士者,無能而云能者也,無知而云知者也,利心無足,而佯無欲者也,行偽險穢,而彊高言謹愨者也,以不俗為俗,離縱而跂訾者也。
新字:古之所謂処士者,徳盛者也,能静者也,脩正者也,知命者也,箸是者也。今之所謂処士者,無能而云能者也,無知而云知者也,利心無足,而佯無欲者也,行偽険穢,而彊高言謹愨者也,以不俗為俗,離縦而跂訾者也。
書き下し
古の所謂處士(しょし)なる者は、德盛んなる者なり、能く靜かなる者なり、脩正なる者なり、命を知る者なり、是(ぜ)を箸(あら)わす者なり。今の所謂處士なる者は、能無くして能ありと云う者なり、知無くして知ありと云う者なり、利心足るる無くして、佯(いつわ)りて欲無しとする者なり、行い偽險穢(ぎけんわい)にして、彊(し)いて謹愨(きんかく)を高言する者なり、不俗を以て俗と為し、離縱(りしょう)して跂訾(きし)する者なり。
現代語訳
いにしえに處士(仕官せず在野にある士)と呼ばれた人々は、徳の盛んな者であり、よく心を静かに保てる者であり、身を修めて正しい者であり、天命を知る者であり、正しい道理を明らかに示す者であった。ところが今、處士と呼ばれている者たちは、能力がないのにあると言い、知恵がないのにあると言い、利益を求める心は際限がないのに、いかにも無欲であるかのように装い、行いは偽りに満ちて陰険で汚らわしいのに、無理に「私は慎み深い」と大声で言い立て、世俗と違うことをかえって自分の流儀とし、世を離れて超然を装いながら人を見下してけなす者である。
解説
前段の仕士に続き、こちらは在野の士、いわゆる處士の堕落を描きます。本来の處士は、徳が厚く、心静かで、身を正し、天命を知り、正しい道理を示す人でした。仕官しないのは、俗世を見下しているからではなく、道を守るためです。ところが荀子の見る現在の處士は、能力も知恵もないのにあると称し、実は利益への執着が強いのに無欲を装い、慎み深さを声高に自称し、人と違うこと自体を自分の看板にして世を斜めに見ている、というのです。無欲や超然を演じることが一種の自己顕示になっている、という指摘は今も痛烈です。私たちの周りでも、「自分は俗物とは違う」という構えが、そのまま新たな見栄になっていることがあります。本当に静かな人は、静かさを誇りません。装いを一枚剥がして、自分の実質と向き合う勇気が問われます。