荀子 / 非十二子篇
古之所謂仕士者,厚敦者也,合群者也,樂富貴者也,樂分施者也,遠罪過者也,務事理者也,羞獨富者也。今之所謂仕士者,汙漫者也,賊亂者也,恣睢者也,貪利者也;觸抵者也,無禮義而唯權埶之嗜者也。
新字:古之所謂仕士者,厚敦者也,合群者也,楽富貴者也,楽分施者也,遠罪過者也,務事理者也,羞独富者也。今之所謂仕士者,汚漫者也,賊乱者也,恣睢者也,貪利者也;触抵者也,無礼義而唯権埶之嗜者也。
書き下し
古(いにしえ)の所謂(いわゆる)仕士(しし)なる者は、厚敦なる者なり、群に合する者なり、富貴を樂しむ者なり、分施(ぶんし)を樂しむ者なり、罪過に遠ざかる者なり、事理に務むる者なり、獨り富むを羞(は)ずる者なり。今の所謂仕士なる者は、汙漫(おまん)なる者なり、賊亂なる者なり、恣睢(しき)なる者なり、貪利なる者なり、觸抵(しょくてい)なる者なり、禮義無くして唯だ權埶(けんせい)を之(こ)れ嗜(たしな)む者なり。
現代語訳
いにしえに仕士(官に仕える士)と呼ばれた人々は、人柄が厚く誠実な者であり、周囲とよく和合する者であり、富貴を得ればそれを楽しむ者であり、それを人に分け与えることを楽しむ者であり、罪や過ちから遠ざかる者であり、物事の道理を尽くそうと務める者であり、自分ひとりが富むことを恥じる者であった。ところが今、仕士と呼ばれている者たちは、けがれて締まりのない者であり、人を害し世を乱す者であり、勝手放題にふるまう者であり、利をむさぼる者であり、人に突っかかる者であり、礼義を持たずただ権勢だけを好む者である。
解説
官に仕える者、つまり組織で職を得て働く人の質が、昔と今とでどう変わってしまったかを対比した一段です。荀子が理想とする仕士像は明快です。人柄が厚く、人と和合し、富を得ればそれを分かち合うことを楽しみ、過ちから身を遠ざけ、道理を尽くし、自分だけが富むのを恥じる。とりわけ最後の「独り富むを羞ず」という一句が、荀子の考える公職者の倫理を端的に示しています。地位とは自分の利得の道具ではなく、人と分かち合うための場だ、というわけです。それに対する現在の姿は、私欲と権勢への渇望に尽きます。この対比は、古き良き時代を懐かしむ愚痴ではなく、「あなたはどちらの仕士か」という問いかけです。役職や肩書きを得たとき、それを何のために使うのか。得たものを一人で抱えこんでいないか。組織で働く人が折に触れて立ち返るべき一段です。
この章句が説くこと
仕士のあり方独り富むを恥ず分かち合う権勢を好む堕落忠臣節義
関連する章句
-
荀子・非十二子篇古の所謂處士(しょし)なる者は、德盛んなる者なり、能く靜かなる者なり、脩正なる者なり、命を知る者なり、是(ぜ)を箸(あら)わす者なり。今の所謂處士なる者は、能無くして能ありと云う者なり、知無くして知ありと云う者なり、利心足るる無くして、佯(いつわ)りて欲無しとする者なり、行い偽險穢(ぎけんわい)にして、彊(し)いて謹愨(きんかく)を高言する者なり、不俗を以て俗と為し、離縱(りしょう)して跂訾(きし)する者なり。
-
荀子・大略篇君子進めば則ち上の誉れを益し、而して下の憂ひを損(へら)す。能はずして之に居るは、誣(し)ふるなり。益無くして厚く受くるは、竊(ぬす)むなり。学ぶ者は必ずしも仕ふるが為ならず、而れども仕ふる者は必ず学ぶが如くす。
-
荀子・不苟篇通士なる者有り、公士なる者有り、直士なる者有り、愨士なる者有り、小人なる者有り。上は則ち能く君を尊び、下は則ち能く民を愛し、物至れば而ち応じ、事起これば而ち弁ず。是くの若くんば則ち通士と謂う可し。下と比して以て上を闇まさず、上に同じて以て下を疾ましめず、争いを中に分かち、私を以て之を害せず。是くの若くんば則ち公士と謂う可し。身の長ずる所、上知らずと雖も、以て君に悖らず。身の短なる所、上知らずと雖も、以て賞を取らず。長短飾らず、情を以て自ら竭くす。是くの若くんば則ち直士と謂う可し。庸言は必ず之を信にし、庸行は必ず之を慎み、法と流俗とを畏れて、敢えて其の独り甚だしとする所を以てせず。是くの若くんば則ち愨士と謂う可し。言に常の信無く、行ないに常の貞無く、唯だ利の在る所のままに、傾かざる所無し。是くの若くんば則ち小人と謂う可し。
-
荀子・非十二子篇情性を忍び、綦谿(きけい)利跂(りき)し、苟(いやし)くも人に分異(ぶんい)するを以て高しと為し、以て大衆に合し大分を明らかにするに足らず。然れども其の之を持するに故有り、其の之を言うに理を成し、以て愚衆を欺惑するに足る。是れ陳仲(ちんちゅう)・史鰌(ししゅう)なり。
-
『慎思録』巻之三古の君子は、己の為にして学び、人の為にして仕ふ。所謂己の為にして学ぶとは、己を修めて身を成さんと欲するなり。人の為にして仕ふとは、人を治めて国を利せんと欲するなり。後の士人は則ち然らず。人の為にして学び、己の為にして仕ふ。所謂人の為にして学ぶとは、人の己を知らんことを欲するなり。己の為にして仕ふとは、身を利せんと欲するなり。故に古の君子は、窮すれば則ち独り其の身を善くし、達すれば則ち兼ねて人を済ふ。後の士人は、窮すれば則ち憂欝怨尤し、達すれば則ち驕奢淫佚す。夫れ君子の為す所は、窮通皆斯の道に志有り。小人の為す所は、窮通皆其の利に志有り。此れ乃ち舜跖の分かるる所なり。大凡君子と小人と、其の為す所毎に相反する者は、此の由を職とす。
-
『初学訓』巻之四一士は、王公大人より下士にいたるまでをいふ。いにしへ、士を立てし本意は、農工商ををさめ養はしめんためなり、民に養はれんためには非ず。凡土地を多く領する人は、我が身ひとりに私せず、倹約にして、奢と私慾なく、民をやしなふを以て心とすれば、其家長く久しく、財宝みちみちて、身の利養ゆたかなり。いにしへ、からやまとの賢君、身に倹約を行ひ、おごりつひえをなし給はざりし故に、たびたび民の貢物をゆるし給へども、後には、倉にたから満ち満ちて、米腐り銭なは朽ちて断れたりとかや。又、公卿より下つかた、士庶人に至るまで、身ををさめて、君によく仕ふれば、君のやしなひを得、財禄をたもちて、利養は求めずして、おのづから其中にあり。しかれば、士たる人は、その官職を専らつとめて、利養は求むべからず。
人生の答えは、ぜんぶ古典に書いてあった。
古典の入門書『人生の教科書』(PDF)と、師導の全機能1か月がセットで700円。二十四の悩みに、論語・老子・孫子から徒然草・五輪書までが答えます。
本の中身を見る