荀子 / 非十二子篇
不法先王,不是禮義,而好治怪說,玩琦辭,甚察而不惠,辯而無用,多事而寡功,不可以為治綱紀;然而其持之有故,其言之成理,足以欺惑愚眾;是惠施鄧析也。
新字:不法先王,不是礼義,而好治怪説,玩琦辞,甚察而不恵,辯而無用,多事而寡功,不可以為治綱紀;然而其持之有故,其言之成理,足以欺惑愚眾;是恵施鄧析也。
書き下し
先王を法とせず、禮義を是とせずして、怪説を治むるを好み、琦辭(きじ)を玩(もてあそ)び、甚だ察なるも惠(けい)ならず、辯なるも用無く、事多くして功寡(すく)なく、以て治の綱紀と為すべからず。然れども其の之を持するに故有り、其の之を言うに理を成し、以て愚衆を欺惑するに足る。是れ惠施(けいし)・鄧析(とうせき)なり。
現代語訳
いにしえの聖王を手本とせず、礼義を正しいものとも認めず、奇怪な議論をこねまわすことを好み、風変わりな言葉づかいをもてあそぶ。細かい詮索は非常に鋭いが人のためにならず、弁舌は巧みだが役に立たず、あれこれ手を出すわりに成果は乏しい。これを政治の大綱とすることはできない。ところが、その主張には一応の根拠があり、言い分は理屈として成り立っているので、無知な民衆をだまし惑わせるには十分である。それが惠施(けいし)と鄧析(とうせき)である。
解説
名家と呼ばれる論理・言語の専門家、惠施と鄧析への批判です。彼らは言葉の定義や論理の綾を扱う議論に長けていました。荀子は、その鋭さ自体は認めつつ、「察なるも惠ならず、辯なるも用無し」と評します。細かく突きつめる力はあるが人の役に立たず、弁が立つが現実を動かさない、というのです。荀子にとって学問は世を治めるための実践であり、言葉の遊戯に終わってはならないものでした。この批判は、頭のよさの使い道を問う言葉として今も生きています。議論のための議論、揚げ足取り、精緻だが誰も救わない分析。忙しく動いているのに成果が乏しいときは、自分の知恵が「惠」すなわち人のためになる方向を向いているかを疑ってみるとよいでしょう。鋭さは、向ける先を誤ると空回りします。