荀子 / 非十二子篇
縱情性,安恣睢,禽獸行,不足以合文通治;然而其持之有故,其言之成理,足以欺惑愚眾;是它囂魏牟也。
新字:縦情性,安恣睢,禽獣行,不足以合文通治;然而其持之有故,其言之成理,足以欺惑愚眾;是它囂魏牟也。
書き下し
情性を縱(ほしいまま)にし、恣睢(しき)に安んじ、禽獸の行(おこな)いにして、以て文に合し治に通ずるに足らず。然れども其の之を持するに故有り、其の之を言うに理を成し、以て愚衆を欺惑するに足る。是れ它囂(たごう)・魏牟(ぎぼう)なり。
現代語訳
感情や欲望のままにふるまい、勝手放題に安住して、まるで禽獣のような行いをする。これでは礼楽の文化に適合することも、世の中の統治にかなうこともできない。ところが、その主張には一応の根拠があり、その言い分は理屈として成り立っているので、無知な民衆をだまし惑わせるには十分である。それが它囂(たごう)と魏牟(ぎぼう)である。
解説
ここから荀子の名指し批判が始まります。最初の標的は、欲望を肯定して自然のままに生きよと説いた它囂と魏牟です。荀子は彼らの生き方を「禽獣の行い」と切り捨てます。人が人であるのは、礼という文化的な形と、社会を治める秩序を身につけているからだ、というのが荀子の考えだからです。注目したいのは、荀子が「その主張には根拠があり、理屈も通っている」と認めている点です。まったくの出まかせなら人は惑わされません。一部は筋が通っているからこそ危ないのだ、という指摘は鋭いところです。私たちの周りにも、「ありのままでいい」「我慢しなくていい」という耳に心地よい言葉があふれています。それ自体が悪いのではなく、そこで思考を止めて欲望の追認に使ってしまうと、成長も他者との関係も痩せていきます。心地よい理屈ほど、その先に何が待つかを一度確かめたいものです。