荀子 / 非相篇
辨莫大於分,分莫大於禮,禮莫大於聖王;聖王有百,吾孰法焉?故曰:文久而滅,節族久而絕,守法數之有司,極禮而褫。故曰:欲觀聖王之跡,則於其粲然者矣,後王是也。彼後王者,天下之君也;舍後王而道上古,譬之是猶舍己之君,而事人之君也。故曰:欲觀千歲,則數今日;欲知億萬,則審一二;欲知上世,則審周道;欲審周道,則審其人所貴君子。故曰:以近知遠,以一知萬,以微知明,此之謂也。
新字:弁莫大於分,分莫大於礼,礼莫大於聖王;聖王有百,吾孰法焉?故曰:文久而滅,節族久而絶,守法数之有司,極礼而褫。故曰:欲観聖王之跡,則於其粲然者矣,後王是也。彼後王者,天下之君也;舎後王而道上古,譬之是猶舎己之君,而事人之君也。故曰:欲観千歳,則数今日;欲知億万,則審一二;欲知上世,則審周道;欲審周道,則審其人所貴君子。故曰:以近知遠,以一知万,以微知明,此之謂也。
書き下し
辨は分より大なるは莫く、分は礼より大なるは莫く、礼は聖王より大なるは莫し。聖王は百有り、吾れ孰(いず)れに法(のっと)らん。故に曰く、文は久しくして滅し、節族(せっそう)は久しくして絶ゆ、法数を守るの有司も、礼を極めて褫(うば)わる、と。故に曰く、聖王の跡を観んと欲せば、則ち其の粲然(さんぜん)たる者に於いてせよ、後王是れなり、と。彼の後王なる者は、天下の君なり。後王を舎(す)てて上古を道(い)うは、之を譬うるに是れ猶お己の君を舎てて人の君に事(つか)うるがごときなり。故に曰く、千歳を観んと欲せば、則ち今日を数えよ。億万を知らんと欲せば、則ち一二を審(つまび)らかにせよ。上世を知らんと欲せば、則ち周道を審らかにせよ。周道を審らかにせんと欲せば、則ち其の人の貴ぶ所の君子を審らかにせよ、と。故に曰く、近きを以て遠きを知り、一を以て万を知り、微を以て明を知る、と。此れの謂いなり。
現代語訳
区別を立てることの中で最も大きいのは、身分と職分の区分けである。区分けの中で最も大きいのは礼である。礼の中で最も大きいのは聖王が定めたものである。しかし聖王は百人もいる。私はいったい誰に手本を求めればよいのか。だからこう言われる。文物や記録は時がたてば失われ、音楽の節回しも時がたてば絶えてしまう。法や規定を守る役人でさえ、古い礼をきわめようとすればかえって見失う、と。だからこう言われる。聖王の足跡を見たいなら、はっきりと目に見えるもので見よ、それが後王である、と。後王とは、今の天下の君のことである。後王を捨てて遠い上古のことばかり語るのは、たとえるなら自分の主君を捨てて他人の主君に仕えるようなものだ。だからこう言われる。千年先を見たいなら、今日という日を数えよ。億や万を知りたいなら、一や二を明らかにせよ。遠い昔を知りたいなら、周の道を明らかにせよ。周の道を明らかにしたいなら、その時代の人が貴んだ君子を明らかにせよ、と。だからこう言われる。近いものによって遠いものを知り、一つによって万を知り、かすかなものによって明らかなものを知る、と。まさにこのことを言うのである。
解説
この章句が説くこと
関連する章句
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荀子・非相篇夫れ妄人(もうじん)曰く、「古今は情を異にし、其の治乱を為す所以の道は異なる」と。而して衆人焉(これ)に惑う。彼の衆人なる者は、愚にして説無く、陋(ろう)にして度(ど)無き者なり。其の見る所すら、猶お欺くべきなり。而るを況んや千世の伝えに於いてをや。妄人なる者は、門庭の間すら、猶お誣(し)い欺くべし。而るを況んや千世の上に於いてをや。聖人は何を以て欺くべからざるや。曰く、聖人なる者は、己を以て度(はか)る者なり。故に人を以て人を度り、情を以て情を度り、類を以て類を度り、説を以て功を度り、道を以て尽くを観る。古今は一なり。類は悖(もと)らざれば、久しと雖も理を同じくす。故に邪曲に郷(む)かいて迷わず、雑物を観て惑わざるは、此れを以て之を度ればなり。五帝の外に伝人無きは、賢人無きに非ず、久しきが故なり。五帝の中に伝政無きは、善政無きに非ず、久しきが故なり。禹・湯に伝政有るも周の察(つまび)らかなるに若(し)かざるは、善政無きに非ず、久しきが故なり。伝うる者、久しければ則ち論は略、近ければ則ち論は詳らかなり。略なれば則ち大を挙げ、詳らかなれば則ち小を挙ぐ。愚者は其の略を聞きて其の詳らかなるを知らず、其の詳らかなるを聞きて其の大を知らざるなり。是を以て文は久しくして滅し、節族は久しくして絶ゆ。
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荀子・不苟篇君子は位尊くして志は恭しく、心は小にして道は大なり。聴視する所の者は近くして、聞見する所の者は遠し。是れ何ぞや。則ち術を操ること然らしむるなり。故に千人万人の情も、一人の情なり。天地の始めは、今日是れなり。百王の道は、後王是れなり。君子は後王の道を審らかにして、百王の前を論ずること、端拝して議するが若し。礼義の統を推し、是非の分を分かち、天下の要を総べ、海内の衆を治むること、一人を使うが若し。故に操ること弥いよ約にして、事は弥いよ大なり。五寸の矩は、天下の方を尽くすなり。故に君子は室堂を下らずして、海内の情挙って此に積む者は、則ち術を操ること然らしむるなり。
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荀子・君子篇法を聖王に論(と)れば、則ち貴ぶ所を知り、義を以て事を制すれば、則ち利する所を知る。論(ろん)に貴ぶ所を知れば、則ち養う所を知り、事に利する所を知れば、則ち動きて出づる所を知る。二者は是非の本、得失の原なり。故に成王の周公に於けるや、往く所として聽かざる無きは、貴ぶ所を知ればなり。桓公の管仲に於けるや、國事往く所として用いざる無きは、利する所を知ればなり。吳に伍子胥(ごししょ)有れども用うる能わず、國亡ぶに至るは、道に倍(そむ)き賢を失えばなり。故に聖を尊ぶ者は王たり、賢を貴ぶ者は霸たり、賢を敬する者は存し、賢を慢(あなど)る者は亡ぶ。古今一なり。故に賢を尚(たっと)び、能を使い、貴賤を等しくし、親疏を分かち、長幼を序するは、此れ先王の道なり。故に賢を尚び能を使えば、則ち主尊く下安し。貴賤に等有れば、則ち令行われて流れず。親疏に分有れば、則ち施行われて悖(もと)らず。長幼に序有れば、則ち事業捷(すみ)やかに成りて休(いこ)う所有り。故に仁とは此れを仁(いつく)しむ者なり。義とは此れを分かつ者なり。節とは此れに死生する者なり。忠とは此れを惇慎(とんしん)する者なり。此れを兼ねて之を能くすれば備われり。備わりて矜(ほこ)らず、一(もっぱ)ら自ら善くする、之を聖と謂う。矜らず、夫れ故に天下之と能を爭わずして、善く其の功を用うるを致す。有りて有(ゆう)とせず、夫れ故に天下の貴(とうと)ぶ所と為るなり。詩に曰く、「淑人(しゅくじん)君子、其の儀忒(たが)わず。其の儀忒わず、是の四國を正す」と。此れ之れの謂いなり。
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荀子・大略篇天下の人、唯(た)だ各々意を特(こと)にするかな。然り而して共に予(ゆる)す所有るなり。味を言ふ者は易牙(えきが)に予し、音を言ふ者は師曠(しこう)に予し、治を言ふ者は三王に予す。三王既に以て法度を定め、礼楽を制して之を伝ふ。用ゐずして改め自ら作る有らば、何を以て易牙の和を変じ、師曠の律を更(あらた)むるに異ならんや。三王の法無ければ、天下は亡ぶるを待たず、国は死するを待たず。
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荀子・王覇篇上は其の下を愛するを致さざるは莫くして、之を制するに礼を以てす。上の下に於けるや、赤子を保んずるが如し。政令制度、下の人百姓に接する所以、理あらざる者、豪末の如きも有らば、則ち孤独鰥寡と雖も必ず焉に加えず。故に下の上に親しむこと、歓ぶこと父母の如く、殺すべくして順わざらしむべからず。君臣上下、貴賎長幼、庶人に至るまで、是れを以て隆正と為さざるは莫し。然る後に皆な内に自ら省み、以て分を謹む。是れ百王の同じくする所以にして、礼法の枢要なり。然る後に農は田を分かちて耕し、賈は貨を分かちて販り、百工は事を分かちて勧め、士大夫は職を分かちて聴き、国を建つる諸侯の君は土を分かちて守り、三公は方を総べて議れば、則ち天子は己を共しくして止むのみ。出づるも若く入るも若く、天下均平ならざるは莫く、治辨ならざるは莫し。是れ百王の同じくする所にして、礼法の大分なり。若し夫れ日を貫きて治平らかに、物を権りて用を称り、衣服をして制有らしめ、宮室をして度有らしめ、人徒をして数有らしめ、喪祭械用皆な等宜有らしめ、是を以て万物に挾用し、尺寸尋丈、制度数量に循わずして行うを得ざらしむるは、則ち是れ官人吏を使うの事なり、大君子の前に数うるに足らず。故に人に君たる者、隆政を本朝に立てて当たり、百事を要せしむる所の者誠に仁人ならば、則ち身は佚にして国は治まり、功は大にして名は美なり、上は以て王たるべく、下は以て覇たるべし。隆正を本朝に立てて当たらず、百事を要せしむる所の者仁人に非ざれば、則ち身は労して国は乱れ、功は廃れて名は辱められ、社稷必ず危うし、是れ人君なる者の枢機なり。故に能く一人に当たらば天下取られ、一人に当たるを失わば社稷危うし。一人に当たること能わずして、能く千百人に当たるは、説くに之れ有ること無し。既に能く一人に当たらば、則ち身に何の労ありて為さん。衣裳を垂れて天下定まる。故に湯は伊尹を用い、文王は呂尚を用い、武王は召公を用い、成王は周公旦を用う。卑しき者は五伯なり。斉の桓公は閨門の内、県楽・奢泰・游抏の脩、天下に於いて脩と謂われずと雖も、然れども九たび諸侯を合し、一たび天下を匡し、五伯の長と為るは、是れ亦た他の故無し、政を管仲に一にするを知ればなり。是れ人に君たる者の要守なり。知者は之が為に力を興すこと易くして、功名綦めて大なり。是れを舎きて孰か為すに足らんや。故に古の人、大なる功名有る者は、必ず是れに道る者なり。其の国を喪い其の身を危うくする者は、必ず是れに反する者なり。故に孔子曰く、「知者の知は、固より以て多し、以て少を守ること有らば、能く察せざらんや。愚者の知は、固より以て少し、以て多を守ること有らば、能く狂せざらんや」と。此れを之れ謂うなり。
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荀子・解蔽篇凡そ以て知るは、人の性なり。知るべきは、物の理なり。以て知るべきの人の性を以て、以て知るべきの物の理を求めて、之を疑い止まる所無くんば、則ち世を没し年を窮むるも徧くすること能わず。其の理を貫く所以のもの億万なりと雖も、已に万物の変に浹きに足らず、愚者と一の若し。学びて身を老いしめ子を長ぜしむるも、而も愚者と一の若く、猶お錯くことを知らざる、夫れ是れを之れ妄人と謂う。故に学ぶ者は、固より止まるを学ぶなり。悪くにか之に止まる。曰く、諸を至足に止む。曷をか至足と謂う。曰く、聖王なり。聖なる者は、倫を尽くす者なり。王なる者は、制を尽くす者なり。両つながら尽くす者は、以て天下の極と為すに足る。故に学ぶ者は聖王を以て師と為し、聖王の制を案じて以て法と為し、其の法に法りて以て其の統類を求め、以て其の人に象効せんことを務む。是に嚮かいて務むるは、士なり。是に類して幾きは、君子なり。之を知るは、聖人なり。故に知有るも以て是を慮るに非ざれば、則ち之を懼と謂う。勇有るも以て是を持するに非ざれば、則ち之を賊と謂う。察孰なるも以て是を分かつに非ざれば、則ち之を篡と謂う。多能なるも以て是を脩蕩するに非ざれば、則ち之を知と謂う。辯利なるも以て是を言うに非ざれば、則ち之を詍と謂う。伝に曰く、天下に二有り、非は是を察し、是は非を察す、と。王制に合うと王制に合わざるとを謂うなり。天下に是を以て隆正と為さざる有らんか、然り而して猶お能く是非を分かち、曲直を治むる者有らんや。
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