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荀子 / 非相篇

人之所以為人者何已也?曰:以其有辨也。飢而欲食,寒而欲煖,勞而欲息,好利而惡害,是人之所生而有也,是無待而然者也,是禹桀之所同也。然則人之所以為人者,非特以二足而無毛也,以其有辨也。今夫狌狌形狀亦二足而無毛也,然而君子啜其羹,食其胾。故人之所以為人者,非特以其二足而無毛也,以其有辨也。夫禽獸有父子,而無父子之親,有牝牡而無男女之別。故人道莫不有辨。

新字:人之所以為人者何已也?曰:以其有辨也。飢而欲食,寒而欲煖,労而欲息,好利而悪害,是人之所生而有也,是無待而然者也,是禹桀之所同也。然則人之所以為人者,非特以二足而無毛也,以其有辨也。今夫狌狌形状亦二足而無毛也,然而君子啜其羹,食其胾。故人之所以為人者,非特以其二足而無毛也,以其有辨也。夫禽獣有父子,而無父子之親,有牝牡而無男女之別。故人道莫不有辨。

書き下し

人の人たる所以の者は何ぞや。曰く、其の辨(べん)有るを以てなり。飢えては食を欲し、寒くしては煖を欲し、労しては息(いこ)いを欲し、利を好みて害を悪(にく)む。是れ人の生まれながらにして有する所なり、是れ待つ無くして然る者なり、是れ禹も桀も同じくする所なり。然らば則ち人の人たる所以の者は、特(た)だ二足にして毛無きを以てするに非ず、其の辨有るを以てなり。今夫の狌狌(しょうじょう)は、形状も亦た二足にして毛無きなり。然れども君子は其の羹(あつもの)を啜(すす)り、其の胾(し)を食らう。故に人の人たる所以の者は、特だ其の二足にして毛無きを以てするに非ず、其の辨有るを以てなり。夫れ禽獣にも父子有り、而も父子の親無く、牝牡(ひんぼ)有るも男女の別無し。故に人道は辨有らざるは莫し。

現代語訳

人が人である理由は何だろうか。答えて言う、区別を立てる働きを持っているからである。飢えれば食べたいと思い、寒ければ暖まりたいと思い、疲れれば休みたいと思い、利益を好んで損害を嫌う。これは人が生まれながらに持っているもので、何も待たずにそうなるものであり、聖王の禹も暴君の桀も同じである。とすれば、人が人である理由は、ただ二本足で毛がないという点にあるのではなく、区別を立てられる点にある。あの猩々は、姿かたちだけならやはり二本足で毛がない。それでも君子はその肉のスープをすすり、その肉を食べる。だから人が人である理由は、二本足で毛がないことではなく、区別を立てられることなのだ。獣にも父と子はいるが、そこに父子としての情愛はない。雄と雌はいるが、人のような男女の区別と節度はない。だから人の道には、必ず区別があるのである。

解説

人はなぜ人なのか。荀子の答えは明快です。「辨」、つまり区別を立てる働きがあるからだ、と言います。腹が減れば食べたい、寒ければ暖まりたいという欲求は、聖王の禹も暴君の桀も同じ。二本足で毛がないという見た目も、人だけの特徴ではありません。荀子は猩々を持ち出し、姿かたちが似ていても人ではないと突き放します。獣にも親子はいますが、そこに親子としての情や礼はなく、雄と雌はいても、人のような区別と節度はない。人を人たらしめるのは、関係にふさわしい線を引き、その線に応じた態度をとれることなのです。この「辨」が、次の段で礼へとつながっていきます。私たちの日常でも、相手が上司か同僚か家族かによって、ふさわしい振る舞いを選び分けています。その線引きの感覚こそ、人であることの中身なのだと荀子は言います。

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