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荀子 / 不苟篇

君子行不貴苟難,說不貴苟察,名不貴苟傳,唯其當之為貴。故懷負石而投河,是行之難為者也,而申徒狄能之;然而君子不貴者,非禮義之中也。「山淵平」,「天地比」,「齊秦襲」,「入乎耳,出乎口」,「鉤有須」,「卵有毛」,是說之難持者也,而惠施鄧析能之。然而君子不貴者,非禮義之中也。盜跖貪凶,名聲若日月,與舜禹俱傳而不息;然而君子不貴者,非禮義之中也。故曰:君子行不貴苟難,說不貴苟察,名不貴苟傳,唯其當之為貴。《詩》曰:「物其有矣,惟其時矣。」此之謂也。

新字:君子行不貴苟難,説不貴苟察,名不貴苟伝,唯其当之為貴。故懐負石而投河,是行之難為者也,而申徒狄能之;然而君子不貴者,非礼義之中也。「山淵平」,「天地比」,「斉秦襲」,「入乎耳,出乎口」,「鉤有須」,「卵有毛」,是説之難持者也,而恵施鄧析能之。然而君子不貴者,非礼義之中也。盗跖貪凶,名声若日月,与舜禹俱伝而不息;然而君子不貴者,非礼義之中也。故曰:君子行不貴苟難,説不貴苟察,名不貴苟伝,唯其当之為貴。《詩》曰:「物其有矣,惟其時矣。」此之謂也。

書き下し

君子は行ないに苟くも難きを貴ばず、説に苟くも察なるを貴ばず、名に苟くも伝わるを貴ばず、唯だ其の当たれるを之れ貴しと為す。故に石を懐き負いて河に投ずるは、是れ行ないの為し難き者なり、而して申徒狄は之を能くす。然れども君子の貴ばざるは、礼義の中に非ざればなり。「山と淵とは平らかなり」、「天地は比す」、「斉と秦とは襲なる」、「耳に入りて口に出づ」、「鉤に須有り」、「卵に毛有り」、是れ説の持し難き者なり、而して恵施・鄧析は之を能くす。然れども君子の貴ばざるは、礼義の中に非ざればなり。盗跖は貪凶なるも、名声は日月の若く、舜・禹と俱に伝わりて息まず。然れども君子の貴ばざるは、礼義の中に非ざればなり。故に曰く、君子は行ないに苟くも難きを貴ばず、説に苟くも察なるを貴ばず、名に苟くも伝わるを貴ばず、唯だ其の当たれるを之れ貴しと為す、と。詩に曰く、「物は其れ有り、惟れ其れ時なり」とは、此れを之れ謂うなり。

現代語訳

君子は、ただ難しいというだけの行ないを尊ばず、ただ細かく鋭いというだけの議論を尊ばず、ただ名が広まったというだけの評判を尊ばない。尊ぶのは、それが道理にかなっているかどうか、その一点である。石を抱えて背負い、川に身を投げるのは、実行の難しいことだ。申徒狄はそれをやってのけた。しかし君子がそれを尊ばないのは、礼義にかなっていないからである。「山と谷は同じ高さだ」「天と地は並んでいる」「斉と秦は重なっている」「耳から入って口から出る」「鉤にひげがある」「卵に毛がある」といった説は、言い張るのが難しい議論である。恵施や鄧析はそれを言ってのけた。しかし君子がそれを尊ばないのは、礼義にかなっていないからである。盗跖は強欲で凶暴だったが、その名は日月のように知れ渡り、舜や禹と並んで語り継がれて絶えない。しかし君子がそれを尊ばないのは、礼義にかなっていないからである。だから言うのだ。君子は難しいだけの行ないを尊ばず、鋭いだけの議論を尊ばず、広まっただけの名を尊ばない。ただ道理にかなっていることだけを尊ぶ、と。詩経に「物がそこにあるのは、それがふさわしい時だからだ」とあるのは、このことを言っている。

解説

不苟篇の冒頭で、篇の題である「苟くもせず」——いいかげんに、ただそれらしく振る舞わない——という姿勢を宣言した一段です。荀子はここで三つの偽物を並べます。難行のための難行、奇をてらうだけの弁論、悪名も含めた有名さ。命を投げ出した申徒狄、詭弁で知られた恵施・鄧析、大盗賊として名を残した盗跖。いずれも世間の目を引く力は絶大ですが、荀子の物差しは一つ、「礼義の中に当たっているか」だけです。難しさや目新しさや知名度は、それ自体では何の価値も証明しません。現代の私たちも、長時間働いたこと、誰も言わない意見を言ったこと、話題になったことを、つい成果と取り違えます。その仕事は理にかなって人の役に立っているか——難易度や注目度ではなく妥当性で自分の行ないを測る習慣が、ここでの学びどころです。

この一句を、あなたの毎日に。

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